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海洋放出の政府方針に思う 弁護士白井劍

海洋放出の政府方針に思う                 弁護士 白井劍

〈煙突を高くすればよい〉

かつて小学校の社会科の授業で、工場の煤煙による近隣被害の防止には「煙突を高くすればよい」と教えられていた。わたしは小学校低学年だったから1960年代半ばまでのことだ。煙突を高くすれば、汚染物質が空気中で希釈されて濃度が下がる。汚染が軽減されて安全になる。そういう理屈だ。しかし、やがて、「煙突を高くする」は「間違い」と教えられるようになる。60年代の終わり頃までにはそうなっていたと思う。煙突を高くしても汚染地域が広域化するだけのことだ。濃度を下げても、総量に変わりはない。

 

〈放射能汚染水の海洋放出を政府が決定〉

東京電力福島第一原発の放射能汚染水を海洋放出する。菅政権は2021年4月13日関係閣僚会議でそのように基本方針を決めた。放出開始は2023年という。事故現場では溶け落ちた核燃料デブリに触れた冷却水などの高濃度の汚染水が大量に発生している。これをALPS(多核種除去設備)で処理した水は、「処理済み汚染水」と呼ばれ、一千基超のタンクに保管されている。この処理済み汚染水を再びALPSで処理したうえ、海水で薄めて海洋に放出するというのが政府の方針である。

 

〈処理しても安全ではないし総量は非常に多い〉

ALPSで再び処理しても安全な水になるわけではない。政府はトリチウムの環境や生体に対する影響を軽視しすぎている。政府の説明を真に受けたマスコミ報道をみると、あたかも人体に悪影響がないかのごとくである。しかし、トリチウムの有害性を指摘する研究報告は少なくない。しかも、海に放出した場合の環境や人体に対する影響について専門家の間でも議論がわかれており、確立した科学的知見は存在しない。安全といえる確かな科学的根拠はない。

政府が放出しようとしているトリチウムの年間放出量は、原発事故前に通常の発電に伴って実際に放出していた年間放出量の10倍である。タンクに貯蔵されているトリチウムの総量は、事故前に放出していた放出量の400年分以上に匹敵する。しかも、トリチウムだけではない。処理済み汚染水にはトリチウム以外にも、ヨウ素129、ルテニウム106、ストロンチウム90などの放射性物質が基準値を超えて含まれている。その総量は未知のままである。

たしかに希釈して放出すれば測定値を法定基準値以下に抑えることができる。しかし、だからといって安全になるわけではない。煙突を高くして煤煙を出すのと同じことだ。濃度を下げても総量に変わりはない。

 

〈水俣病の教訓〉

胎児性水俣病の発見を始め水俣病研究で知られる医師の原田正純先生は、2012年3月17日、日本環境会議第29回大会(島根)全体シンポジウムで福島原発事故について会場から発言した。原発事故から1年後。被害の深刻さに言及したうえでつぎのとおり述べた。原田先生がお亡くなりになる3か月前のことだった。

「驚くべきこととして、ある有名な先生が、放射能が海に出て行って薄くなっていると言っています。私は、これを聞いて愕然としましたね。一度海で薄くなったものが、食物連鎖の中で濃縮されたというのが(水俣病を始めとする公害の)教訓だったのではないでしょうか。そういったことを平気で言う方が専門家としておられることに愕然としたんですよ」

1958年9月、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド排水の放出は水俣湾内の百間口から、湾外の水俣川河口に変更された。チッソが通産省(現:経産省)の指導をうけておこなった変更だった。水俣湾沿岸集落に多発していた人体被害は、この排水口の変更を機に不知火海沿岸全域へと一気に拡大していった。水俣湾は明神崎、恋路島、茂道崎に囲まれ、その地形が汚染を湾内に閉じ込めていた。排水口を湾外に変更したために不知火海の潮流にのって汚染の範囲が拡大した。たしかに海水で薄められて濃度は下がったはずである。しかし、食物連鎖によって凝集され、不知火海のあちこちの漁村で魚介類を毎日食する漁師たちの健康をむしばむ結果となった。

いまや太平洋のど真ん中のマグロでさえも有機水銀に汚染されている。もちろんチッソが原因ではない。世界各地でさまざまな理由により海洋に放出された水銀が原因である。海洋に放出すれば希釈されても巡り巡って人体をむしばむのである。

 

〈政府の方針だからと諦めるべきではない〉

ことは内部被ばくの問題である。たとえ微弱な放射線であっても、体内にはいればその放射線を遮るものは何もない。確実に臓器をむしばんでいく(※1)。まして、食物連鎖で濃縮された放射性物質が体内にはいってくる可能性を無視することはできない(※2)。

政府や東電は「風評被害対策を徹底する」と言っている。とんでもないことだ。「風評」と言うのは誤導である。実害はなく安全なのに誤った風評のために被害を受けることを「風評被害」と言う。仮に政府方針どおりに実行されれば実害が生じる可能性がある。「風評」ではない。ごまかしてはならない。

政府が決めたことであっても、大勢の国民が「納得できない、反対だ」と考えれば政策を変えさせることは可能だ。政府が決めたことだからしかたがないと思うのは、もうやめよう。すくなくともこの問題に関する限り、諦めてはならない。わたしたち自身の健康と子や孫たちの未来に深くかかわることなのだから。

 

※註1 現に、トリチウムがDNAに取り込まれた場合ヘリウムに変化してDNAを破損すると言われている。トリチウム崩壊時のエネルギーによるDNA切断を示す実験研究も存在する。                         カナダの重水炉ではトリチウム放出量が多く、放出地点の下流域で白血病や小児白血病、新生児死亡などの増加が報告されている。

※註2 トリチウムは生物濃縮しないと経産省は言う。しかし、海外では英国政府の2002年RIFEレポートなどの研究論文でトリチウムの生物濃縮が示唆されてきた。

(おわり)