コロンブスの卵と境界確定訴訟 (連続4回・第1回)弁護士 白井劍
〈思い込みは厄介なもの〉
思い込みという厄介なものが、人にはある。
そいつは人の認識を歪める。判断を阻害する。そいつから完全に自由になることは誰にもできない。
〈コロンブスの卵〉
コロンブスの卵という逸話がある。コロンブスがある宴席に参加したときのこと。「大陸発見は大した業績じゃないよ。いつかはだれかが発見したはずだ」と言う者がいた。コロンブスは卵を手にとって言った。「紳士諸君、賭けをしましょう。何も道具を使わずに、この卵を立てることができますか」と。その場にいた者はみな試してみた。でも誰も立てることはできなかった。コロンブスは卵をテーブルに打ち付け、片端を少し平らに潰して立ててみせた。そういう逸話である。
この逸話もまた思い込みの厄介さを表している。卵を傷つけてはいけないと皆が思いこんでいた。その思い込みをコロンブスがうち砕いた。やって見せられれば、「なんだ、そんなことか」と思う。それなのに、やって見せられるまでは誰も思いもつかない。成し遂げられてしまえば簡単に見える。新たな発想をもち実行に移すことが貴いのだ。そういう趣旨の逸話としてよく知られている。ただし、実話ではないらしい。
〈潰さなくとも卵は立つ〉
じつは、この逸話にはもうひとつ別の思い込みが隠れている。卵は無傷のままでは直立しないという思い込みである。コロンブスの卵の逸話が人口に膾炙すればするほど、この思い込みが広まってしまった。皮肉な話である。思い込みの危うさに警鐘を鳴らすはずの逸話が別の誤った思い込みを生み出してしまった。実際には卵は立つ。鶏の生卵は無傷のまま平面に直立させることができる。実際にやったことのあるかたならば首肯くださるはずだ。こればかりは、やってみなければわからない。もし時間と平らな場所があって卵が手許にあるならば、ぜひお試しあれ。わたしは6~70個の卵で成功した。たとえばプレーンオムレツをつくるとき、料理にかかる前に生卵を立たせてみる。以前それに凝っていた時期が何年かあった。挑戦した卵はすべて立った。卵は立つ。わたしにとっては確信である。
もっとも、焦るとうまくいかない。時間と気持ちに余裕があるときに限る。両手のすべての指をつかって全方位から卵を支える。そうしてバランスをとる。ただ一点の重心を探る。その一点はかならず見つかる。卵にも個性があるから、30秒とかからないものもあれば、5分以上かけてようやく立つものもある。いずれにせよ、かならず立つ。別にコツはない。ひたすら慎重にバランスをとるだけである。
いささか卵に力がはいりすぎた。話を元に戻そう。話題は思い込みの厄介さだった。
〈思い込みから逃れるのは難しい〉
自分のなかに住みついた思い込みから逃れるのは容易なことではない。思い込みに縛られると、どんなに一生懸命に頑張ってもうまくいかなくなってしまう。
ところが、違う方向から光が当たって、ああ、そういうことだったのかと気づくことがある。
視点が変わって、思い込みから自由になった自分に出会うのである。おかげで物事がうまく回っていくきっかけが得られる。そういうことがある。
思い込みの厄介さを痛感させられた裁判の1つをお話ししたい。土地の境界をめぐる訴訟だった。「境界確定訴訟」と呼ばれる訴訟類型である。
〈 to be continued:つづきは「コロンブスの卵と境界確定訴訟(第2回)」をごらんください。なお、本稿は2021年3月掲載稿の誤記を訂正した訂正稿です〉