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雨       弁護士 白井劍

雨                                弁護士 白井劍

〈雨降れば〉

雨がしとしと降っている。空はどんよりと雲に覆われ、昼間もうす暗い。今月の東京はこういう空模様が多い。雨は気持ちを沈ませる。晴れてほしいと願う。

「雨よ、やんでくれ」という強い願いを詠んだ短歌が石川啄木にある。

雨降れば

わが家の人誰も誰も沈める顔す

雨霽れよかし

(あめふれば/わがいえのひと/たれもたれも/しずめるかおす/あめはれよ/かし)

背景には貧困がある。そして、生活苦、狭い家屋、多人数の家族、家族同士の軋轢、将来に対する悲観、そういったものが絡まりあっている。加えて、雨が気持ちを沈ませる。せめて雨だけでも、なんとか止んでほしい。そういう短歌である。

 

〈雨霽れよかし〉

中学生の一時期わたしは啄木の短歌に夢中になった。勉強をおもしろく感じたことはついぞなかったのに、これだけはおもしろかった。中学生のわたしを惹きつける何かが啄木の短歌にはあっただろうと思う。

とはいえ、気に入ったのをただ覚えただけで意味も理解していなかった。「雨霽れよかし」もそうだ。「あめはれ/よかし」と思い込んでいた。「よかし」などという、古語にも現代語にもない言葉を勝手に思い浮かべて、「雨が晴れればよかったのに」だと思っていた。

高校生になって古文の授業で強調の終助詞「かし」が出てきた。教師は更級日記かなんかの文章を例に引いて説明したような気がする。突然、周囲の音が消えて、わたしは白日夢に陥った。自分ひとりの世界で、啄木の「雨霽れよかし」を思い出していた。ああ、そうなのか。「あめはれ/よかし」じゃなくて、「あめはれよ/かし」なんだ。「雨霽れよ」を強調しているんだ。そう思った。

ひとからみれば愚かしいだろう。わたしには、ささやかな感動だった。

 

〈雨やめたまへ〉

雨がやむことを強く願う、もっと有名な和歌がある。正岡子規や斎藤茂吉からも絶賛されたと聞く。鎌倉三代将軍、源実朝が読んだ万葉調の和歌である。

時により 過ぐれば民の嘆きなり

八大龍王 雨やめたまへ

啄木の「雨降れば」とはずいぶんと趣が異なる。啄木は地べたから空を見上げて嘆息した。実朝は空高く駆け上がって社会を俯瞰し、天空の龍神と対峙して民の嘆きに耳を傾けよと咆哮している。

 

〈気候危機〉

東京でわたしがにび色の空を見上げている今も、西日本は大雨らしい。今年もすでに避難勧告が出たり床下浸水になったりしている。昨年も一昨年もその前も毎年のように各地で豪雨被害がつづいた。死者、行方不明者が多数にのぼった。800年前の実朝の時代も今も、「民の嘆き」に変わりはない。

いや、もっとひどくなっている。地球温暖化が進むなか自然災害の被害はいっそう広域化し、いっそう深刻になっている。気候危機はまさに待ったなしである。

ところが、政府に危機感はない。「50年までの実質ゼロ」の目標も具体性に乏しい。原発推進の口実に使われるだけのおそれさえある。今月21日主要7か国気候・環境相会議では、議長国の英国を始め欧州各国が「石炭火力の全廃」を声明に盛り込もうとした。ところが、日本政府が反対したために実現しなかった。「民の嘆き」を少しでも和らげるために、危機感を政府にはもってもらいたいものである。

(以上)