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大津事件と児島惟謙、そして司法権の独立【前編】 弁護士白井劍

大津事件と児島惟謙、そして司法権の独立【前編】 弁護士白井劍

〈司法修習生のときに読んだ「大津事件の再評価」〉

 ごく若いときの読書は心の奥底に刻まれる。無我夢中で読んだ本は歳月を経ても心に残る。そういう特別な本はだれにもあるし、わたしにもある。その1冊の話をしようと思う。田岡良一著「大津事件の再評価」(有斐閣)である。司法修習生のとき、ひとから勧められて読んだ。土曜午後から日曜にかけて文字どおり寝食を忘れて没入した。著者の田岡良一は著明な国際法学者である。1898年生まれ。没年は1985年。京都大学名誉教授。1967年から亡くなるまで常設国際司法裁判所裁判官を務めた。そういう人が書いた法律学の研究書である。読む前は、さぞかし難解な本だろうと思っていた。一般に法律書は読みづらく難しい。ところが、「大津事件の再評価」はそうではない。わかりやすいし、おもしろい。あたかも良質の推理小説のようだ。1976年、田岡良一が78歳のときに書かれている。

 この本の中心テーマは「大審院長児島惟謙(こじまこれかた)は何を守ろうとしたのか」である。「司法権の独立」を守ったというのが常識である。著者は、「そうではない」と、常識を覆す問題提起をする。「世上一般に考えられているよりもはるかに複雑な事件であり、法律上問題となる点もはなはだ多く、国際法の領域にも及んでいる」と言う。そして、「児島大審院長の行動を子細に観察して見ると、彼が世間でいわれているような護法の神と称すべき法律家であったかどうかは問題である」と断じ、そのことを様々な角度から論証している。以下に、この本の概略を紹介したい。

〈大津事件に関する常識〉

 まず、大津事件のおさらいをしよう。高等学校日本史の教科書(山川出版社発行「詳説日本史B」)はつぎのように説明している。

 「訪日中のロシア皇太子が琵琶湖遊覧の帰途、滋賀県大津市で警備の巡査津田三蔵によって切りつけられ負傷した事件。ロシアとの関係悪化を苦慮した日本政府(第1次松方内閣)は、犯人に日本の皇族に対する大逆罪を適用して死刑にするよう裁判所に圧力をかけたが、大審院長児島惟謙(こじまこれかた)はこれに反対して津田を適法の無期徒刑に処させ、司法権の独立を守った」

〈傷害事件の加害者と被害者〉

 加害者の津田三蔵のことを少し述べたい。かれは藤堂藩藩士の家に生まれた。原籍地は伊賀の上野町。17歳で陸軍にはいり軍曹にまで昇進。その後、警察に奉職した。内向的性格で、人付き合いは少なかったといわれる。政治に対する関心は高かった。しかし、その思考は単純であったらしい。ロシアの樺太奪取を恨みに思い、皇太子の訪日は将来日本を征服するための準備として地形を偵察にきたという風説を鵜呑みにした。愛国心が人一倍強く、北方から日本を脅威する大ロシア帝国の圧迫を感じていた。

 被害者のことも少し述べたい。名はニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ。ロシア皇帝アレクサンドル3世の長男として生まれた。22歳のときに、大津事件(1891年5月11日)に遭遇した。3年後の1894年、父帝の崩御によって即位しニコライ2世と名乗る。日露戦争では敗戦の皇帝となる。第一次世界大戦に露仏同盟に基づいて参戦。1917年ロシア革命によって帝位を失った。翌年エカテリンブルグにおいてボルシェヴィキの手によって、妻子とともに殺害された。ロマノフ王朝最後のロシア皇帝である。

〈大津で起きた傷害事件の顛末〉

 さて、大津事件に話を戻そう。皇太子ニコライは1890年秋にロシアの首都を発った。ウィーンを経て、陸路ギリシアにはいり、親戚にあたるギリシア第2王子を同伴して海路日本にやってきた。1891年4月27日長崎港に投錨した。その後、神戸に上陸して畿内の名所旧蹟の遊覧をおこなった。宿泊地は京都である。大津事件が起きたのは同年5月11日。この日は琵琶湖遊覧の予定であった。ロシア皇太子とギリシア王子は、三保ケ崎から汽船にのり、湖岸沿いに北上した。そして、松で名高い唐崎に上陸。唐崎からふたたび汽船で三保が崎にもどり、午前11時40分滋賀県庁にはいった。午餐をとり、午後1時半、県庁を辞して、人力車を連ねて、京都への帰路についた。その数分後に災厄がかれを襲う。

 津田三蔵は警固の一員として、通りの右側に佇立して皇太子一行の来るのを迎えた。ニコライの車が近づいたときは深々と頭を下げて一礼した。車をやり過ごしてから追いかけて、やにわにサーベルを抜いて車上のニコライに襲いかかった。その頭部の右側にふた太刀切りつけた。驚いて車から飛び降りて逃げようとするニコライをなおも三蔵は抜刀のまま追おうとした。ところが、後ろの車のギリシア王子も飛び降りて手に携えた竹の杖で三蔵の肩のあたりを打ち据えた。車夫のひとりが三蔵の足にタックルしてこれを倒した。

 皇太子ニコライは随行員の医官から応急手当をうけた。頭部に包帯をしたうえで県庁まで引き返した。傷は意外に浅手だった。手当をうけて県庁の玄関をでるときは、自分で歩いて階段を降りて、ひとりで人力車に乗り込んだ。

 以上が傷害事件としての大津事件の概略である。当時、皇位継承者に対する殺傷は宣戦布告の口実になりえた。日本にとって国を揺るがす大事件であったはずだ。

〈傷害事件直後数日の国民的パニック〉

 大津における事件の報は、ただちに電報で東京に伝えられた。たちまち日本全国に拡がった。国じゅうが驚愕と恐怖につつまれた。外国の皇太子の殺害を、その皇太子を警備すべき警察官が企てたのである。しかも、当時ロシアは機会があれば日本を侵略する野心を抱いていると思われていた。その野心を遂げる機会をわざわざ国家機関の一員が提供したようなものである。国民全体がパニックに陥った。政府もそうであった。司法大臣は、「ロシアから賠償として領土割譲を要求してくるかもしれぬ。まさか九州を要求するようなことはないであろうが、千島ぐらいは要求するかもしれぬ。じつに一大国難である」と語った。なんとかして、この国難から逃れねばならない。ロシアに向かって、国民の抱く深厚な遺憾の念と、皇太子の速やかな快癒を祈る念を表現する運動が全国各地で競って展開された。東京の多くの学校では事件翌日の12日は休校して謹慎の意を表した。各宗派の寺院や神社や教会はロシア皇太子快癒の祈祷をあげた。劇場や一般の会社なども事件翌日の12日は休業とするところが多かった。吉原などの遊郭の多くも休業した。歌舞音曲は自粛された。日本全体が喪に服したかのような憂愁に覆われた。

 それと同時に、津田三蔵に対する憤りと呪いの声が全国に充満した。たとえば山形県最上郡金山村では事件の翌々日5月13日に緊急村会を開いて、「第1条:本村民は津田の姓を付するを得ず。第2条:本村民は三蔵の名を命名するを得ず」という村条例を採択した。この村は津田三蔵と何のかかわりもない。それでもこの過剰反応であった。津田三蔵の本籍地の伊賀上野町では悲劇が起きた。三蔵の妻、長女(6歳)、長男(3歳)、老母に対し、上野町町民が憤激の声を上げ、町内から立ち退くように迫ったのである。

〈刑法116条の適用問題〉

 津田三蔵の処罰をめぐる議論は当時の刑法116条(大逆罪)の適用可否の問題として現れた。同条は、「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えんとした者は死刑に処す」と定めていた。しかし、外国の君主や皇族については何の規定もなかった。外交的配慮からこれを適用して津田を死刑に処するのか、それとも事後法の禁止(罪刑法定主義)を貫いて通常の殺傷事件とするのかの問題である。政府は死刑を求め、裁判所は大逆罪の適用に徹底して抵抗した。当初は政府の対応が圧倒的に支持された。津田を極刑に処すべきという声が渦巻いた。ところが、やがて潮目が変わっていく。それは傷害事件から10日も経たない時期のことであった。

〈潮目の変化〉

 傷害事件からほどなく、ロシアからの報復的措置はとられそうもないことが次第に明らかになった。国民の間に安堵感が拡がった。そうなると世論は逆転し始める。政府が刑法116条の適用に固執するのは、ロシアへのへつらいが度を越して、ひとりの国民の命を奪い、国法を蹂躙するものである。そのように一般市民の目に映るようになった。潮目が変わったのである。

 予審を担当した三浦順太郎大津地裁判事は、「国内における世論の推移を見ても、時間の経過による人心の変化を知ることができる。はじめ事件が突発したときには、国民は誰もみな犯人を憎み、一人の同情者もなかったのみならず、ロシアを怖れるのあまり、わが国を救うために彼をどんな厳罰に処しても、非難を唱える者はないというありさまであった。しかし、おいおいロシアの意向もわかり、さほど重大な国際問題も起こってこないことを知ると、今度は反対に犯人に同情する傾向となり、政府のほうでは彼に刑法第116条を適用して死刑に処そうとする議があることを聞いて、法曹たちはこぞって反対し、これは司法権の独立を侵害するものであって、由々しき国家の大事であると唱え、世論もまたこれに追従した云々」と記録を残している。津田三蔵は「愛国の志士」と称せられるようになった。この志士を、国法をまげてまで死刑にしようとする政府を非難する声が澎湃として沸き上がった。そして、「この間終始一貫して津田三蔵の死刑に反対した(という評判をとった)児島大審院長」は「護法の神」と称賛されるようになっていく。

 潮目が変わったのちのこの世論が、そのまま大津事件や児島惟謙に対する歴史的評価となった。しかし、その評価は見直されなければならないというのが、「大津事件の再評価」の著者の主張である。

【以上、前編。あす後編をアップします】

大津事件と児島惟謙、そして司法権の独立【後編】 弁護士白井劍