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不動産売買にともなう慰謝料を認める最高裁判例をとった話(前編)弁護士白井劍

不動産売買にともなう慰謝料は認められるか ~財産的利益に関する意思決定権侵害による慰謝料を初めて肯定した最高裁判例をとった話(前編) 弁護士白井劍

 

〈裁判例は否定的〉

 財産権侵害による慰謝料が認められるかという質問に法律相談で遭遇することがある。たとえば、交通事故の物損だけの事案で、「慰謝料も請求できますよね」とおっしゃる。建築請負や不動産売買などでも同様の質問をされたことがある。身体の損傷などの人格的利益の侵害はまったくないケースである。曖昧なお答えをすると混乱のもとになる。冷たい言い方にならないよう気をつけつつ、「残念ながら難しいです。仮に訴訟を提起しても認められないと思います」と申し上げざるをえない。一般に裁判所は財産権侵害にともなう慰謝料請求に否定的である。まれに認めた裁判例もあるとはいえ、きわめて特殊な、滅多にないケースである。

 とはいえ、なぜ認められないのかを説明するのは容易ではない。そもそも民法は、「他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず」、故意・過失により侵害した者は精神的損害に対しても「その賠償をしなければならない」と規定している(第710条)。精神的損害に対する賠償が慰謝料である。明文規定があるのだから、財産権侵害に対する慰謝料を請求できるのが原則のはずである。しかし、裁判所は原則として慰謝料請求は認められないとする。財産的損害が賠償されることによって精神的苦痛も慰謝されるからだと言う。これを、被害感情をもつ相談者が納得なさるように説明するのは不可能に近い。

 

〈意思決定権の侵害にともなう慰謝料〉

 財産権それ自体の侵害ではないが、似たような問題に、財産的利益に関する意思決定権の侵害がある。この場合も慰謝料を否定するのが判例だった。たとえば阪神淡路大震災の際に家屋が火災で焼失した被災者が、保険会社の説明が不充分だったので地震保険に加入する意思決定の機会を奪われたとして慰謝料の支払いを請求した事案がある。最高裁は、地震保険に加入するかどうかの意思決定は、生命、身体等の人格的利益に関するものではなく、財産的利益に関するものであるから、保険会社の情報提供が不充分であったとしても、特段の事由がないかぎり、慰謝料請求を認めうるだけの違法性があるとはいえないと判断した。2003年12月9日最高裁判決である。

 この先例に反して、慰謝料を認める最高裁判決をわたしはとったことがある。もっとも、わたしひとりではなく、河野憲壯弁護士、松居英二弁護士、縣俊介弁護士とともに組んだ弁護団でかちとった。2008年11月18日に言い渡された。言い渡しは、弁護団全員と原告団の代表が法廷で聞いた。通常、最高裁の判断はある日突然郵送されてくるだけである。でもこのときは、従前の判例との関係を明らかにするために法廷が開かれた。この判決を掲載した「判例タイムズ」1172号135頁の解説には、「財産的利益に関する意思決定権侵害を理由とする慰謝料請求を初めて正面から肯定した最高裁判例であり、実務に与える影響は大きいものがあると考えられることから、ここに紹介する」と記載されている。つぎに述べるとおりの事案であった。

 

〈公団住宅の建替え事業〉

 事案の主役は、古くから続く公団賃貸住宅の居住者たちである。結婚以来住んでいる老夫婦もいれば、生まれてこのかた住んでいる若者もいた。賃貸人は、住宅・都市整備公団(現:独立行政法人都市再生機構(UR))である。公団は1990年、この団地の「建替え事業」を発表した。974戸であった旧団地を建替えて高層化し、1550戸とする計画であった。建替え後の1550戸のうち1200戸は賃貸、350戸が分譲とされた。もとの住民たちは賃貸と分譲とをそれぞれに選択していった。他の公団賃貸住宅に移転した人もいた。いずれを選択しても、もとの賃借権の喪失を承諾させられた。分譲を選択した約40名がのちの訴訟の原告になった。

 

〈建替え後分譲住宅への優先入居〉

 建替え後分譲住宅への入居を選択した人々(のちの原告たち)は、公団とのあいだで1992年に「覚書」を結んだ。「覚書」には「一般公募に先立ち、優先して(建替え後分譲住宅に)入居できる」とうたわれた。1995年、公団とのあいだで分譲住宅の売買契約を結び入居した。「優先入居」の約束があるのだから当然に、自分たちの購入価格は、引き続きおこなわれる一般公募の価格と同等だと原告たちのだれもが思っていた。

 ところが、一般公募はおこなわれなかった。分譲されずに放置された分譲棟は「塩漬け棟」と呼ばれた。350戸の分譲団地に40世帯ほどしか居住していない。ゴーストタウンだった。さまざまな人が団地に侵入した。廊下などに寝泊まりする人たちが絶えない。違法駐車は日常のこと。近隣の中学生が喫煙や飲酒をする。掲示板に放火されたこともある。管理組合はひとつひとつに対応した。しかし、問題は次からつぎに起こるのに、住民があまりにも少ない。手が回らなかった。

 公団は3年間放置した挙句、1998年に一般公募に踏み切った。公募価格は原告たちの購入価格よりも大幅に減額された。平均値下げ率は25.5%、平均値下げ額は854万円であった。公団がすぐに一般公募に踏み切らなかったのは、同じ水準では一般公募をしても買い手がつかないと踏んだからに違いない、そのことを隠して高額で自分たちに売りつけたのだと原告たちの誰もが思った。

【以上、前編おわり。あす後編を配信します】
不動産売買にともなう慰謝料を認める最高裁判例をとった話(後編)弁護士白井劍