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東海道新幹線開業60周年   弁護士 石川順子

東海道新幹線開業60周年

2024.9.23
弁護士 石 川 順 子

 私はけっこう乗り物が好きだ。電車はもちろんだ(けれど、いわゆる○鉄というほどの鉄道ファンではない)。で、毎週土曜日10:05からのNHKラジオ「鉄旅・音旅 出発進行!~音で楽しむ鉄道旅~」を聴いている(だいたい聞き逃しサービスで)。9月21日は、「新幹線開業60周年SP拝啓新幹線様 1」だった。
そうだ、小学校1年生の夏、開業直前に突貫工事中の東京駅で「夢の超特急ひかり」のお披露目があり、父に連れられて行った記憶があった。コードでつながった裸電球に照らされた地下通路(?)を長々と歩き(という記憶)、ようやく「ひかり」(0系)にお目にかかった。日本が世界に誇る電車ができた。あの頃の高揚感は子どもの私にも伝わっていた。
父は、新幹線の車両を製造した日本車輌という会社の蕨工場に勤務していた。車両の台車の製造部門で働く工員で、新幹線0系の台車の製造にもかかわった。なんとか技能士という証明書(たぶん金属関係)が家にあった。父親が「ひかり」(の一部だけど)を作ったというのは誇らしかった。蕨工場は、所在地住所は川口市内だったが、蕨駅のすぐ近くの線路沿いにあったので蕨工場と呼ばれたのだろう。工場の周辺には日本車輌の社員用の住宅がたくさんあった。わが家も社宅に住んでいた。小学校のひとクラス約40人の中のだいたい数人は父親が日本車輌の社員だった。
どんな理由だったかはわからなかったが、ある平日に父が私を蕨工場に連れて行ったことがあった。広い敷地にいくつもの大きな工場建物があり、その中につくりかけの電車があって、お面をつけた人の近くに火花が飛んでいたりして、たくさんの人が働いていた。父が働いている職場に行くと、屋根の下に線路が何本も敷いてあって、車輪がはまっている枠の状態のもの(いわゆる台車?)が並んでいた。驚いたのは工場の騒音だった。両耳を親指でぎゅーっと押さえても耐えられないくらい。父は、耳栓なんかしてたら仕事してられないよーと言っていた。こんなにうるさいところで働いているんだと、こども心に胸が痛んだ。それから、父の手の爪には血豆が絶えなかった。そのわけが分かったような気がした。工場に子どもを連れていってよかったのだろうか?今だったら問題になりそうだけれど、60年も前のことだ。ゆるかったのだろう。
その後蕨工場は、愛知県の豊川に移転することになった。従業員で移転に反対する署名運動をしたようだったが、すでに会社が決めたことだ。変わることはなく、父は、豊川に転居して勤務を続けるか、退職して別の勤務先をさがすかの選択を迫られた。結局、検討の末、関東圏での生活を続けることにし、その後数カ所の勤務先を経て引退した。
新幹線の開業は小学校1年のときだったが、私が初めて新幹線に乗ったのは、父が日本車輌を辞めた後の、中学3年生の修学旅行においてである。前日の夜、父は自慢げに、「新幹線が発車するときは、友達とはしゃいでないで、じーっとしていてごらん。ぜんぜんガタンという音も出さずに、ゆれもせずに、いつのまにか動き出すから」といった。私は友達にその話をし、友達を巻き込んで父の言うとおりにしてみた。本当に、何の前兆もなくスーーーーっと動き出した。ほんとだほんとだ、手を叩いて喜んだ。それから私は、新幹線に乗るたびに思い出し、なんとも優雅なその滑り出しを味わっている。
しかし、その新幹線の騒音が問題となり訴訟が起きた。誇らしい気持ちがちょっとしぼんだ。国鉄には、運行上の配慮や物理的な騒音対策をしっかりやってほしい、そう思った。その後、新幹線の車両は改良されていき、騒音が低減されているときく。
新幹線には食堂車があったものの、2000年に廃止された。たった1度だけ、食堂車で食事をしたことがあった。弁護士になって何年か経って30代そこそこだったかもしれない。岡山地裁での事件を担当し、通常はひとりで岡山に通い、昼食はキヨスクで買ったサンドイッチか駅弁、財布の中身が乏しい私は食堂車には近寄りがたかった。裁判が進行し、いよいよ依頼者の方の本人尋問期日になった。いっしょに岡山に行く新幹線、依頼者の方が食堂車に行きましょうと声をかけてくださり、ごちそうになった。ビーフシチューセットをいただいた。とってもリッチなランチで、貴重な思い出である。
ある日父が、埠頭にいる新幹線300系の写真を私に見せた。えーーーっと驚いた。大きなトレーラー(?)に新幹線が載せられている。なんで新幹線が埠頭にいるの? 父はその時、すでに日本車輌は退職していて、ある埠頭で仕事をしていた。本当に偶然遭遇したのだろう。運良く写真を撮れたという。もしかしたら、豊川工場で製造された新幹線が船で運ばれてきたのかもしれない。父は愛おしむように写真に見入っていた。
その父も、年を経るに従って耳が遠くなった。あの騒音のせいだろうか。そして認知機能も衰えていった。もう引退しているのに、仕事に行ってくると出かけていき、心配した母が後を追って一緒について行くと、行った先は蕨だった。しかし、工場はすでになかった。
父が他界して数年になる。新幹線と聞くと、誇らしさと、ちょっとした後ろめたさと、悲しさと、懐かしさと、いろんなものがないまぜになって、心を揺すられる。あの昭和の時代の一部を支えた新幹線のさらに一部にかかわった一工員としての父に思いをはせる開業60周年である。

以上

追補:父が、蕨工場で新幹線以外にも製造にかかわっていたものがある。この場に記録しておきたい。
* 上野動物園の初代モノレール。現在は、もうなくなってしまった。
* 谷川岳ロープウエイの初代ゴンドラ。これは話には聞いているのだが、ネットで調べても、日本車輌が製造したという記事を発見できず。
* 秩父の宝登山ロープウェイのゴンドラ。これはネットで調べたところ現役だそうだ。引退する前に行ってみたい。