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民を棄てる国なのか~満蒙開拓団と原発事故そして津島 弁護士白井劍

民を棄てる国なのか~満蒙開拓団と原発事故そして津島 弁護士白井劍

 

〈新映像の世紀バタフライエフェクト〉

 NHKテレビの「新映像の世紀バタフライエフェクト」が好きだ。録画しておいて時間のあるときに観る。2024年11月18日に放送された「ふたつの敗戦国(後編)」は満蒙開拓団を取り上げた。「国策」に従って村をあげて満州に渡った。侵攻してきたソ連軍の暴力に無防備にさらされた。命からがら日本に戻ってきても「国策」にしたがって山間部の荒野の開墾をするほかなかった。「国策」に翻弄され、国から棄てられた人びとである。

 放送の最後に、高齢の女性のことばが、染み入るような静かな語り口で紹介された。「満州から引き揚げてきて浪江町津島地区に住むようになってから、60有余年。悲喜こもごもの思いがあった津島だが、家族の思い出、隣近所の思い出のある、あの場所で、残りの人生を暮らしたかった。満州での逃避行と、原発がつぎつぎと爆発し放射能に追われ逃げ惑う姿が、どこか似ているような気がする。80を過ぎても、なぜこんな目に遭わなければならないんだ。死ぬまで苦労しなければならないのかな」。

 

〈帰還困難区域のひとつ浪江町津島地区〉

 彼女が「残りの人生を過ごしたかった」と言った「福島県浪江町津島地区」はいま、「帰還困難区域」のひとつである。福島第一原発事故のために「人が住めなくなった広大な土地」である。事故から14年が経とうとしているいまも、避難生活を余儀なくされている。東京の山手線内の1・5倍ほどの土地に、事故前は1400名ほどの住民がいた。その全員が追われるように避難していった。地域がまるごと高濃度の放射性物質に汚染されて「帰還困難区域」に組み入れられた。

 津島地区は、古くからの旧家と戦後の開拓住民とが共存していた。前者は江戸時代から何代にもわたって続いてきた。後者は戦後に「国策」にもとづいて開墾目的で移住してきた。開拓住民は原野を人力だけで切り拓き、極貧の生活のなかで、辛酸をなめてきた。その子たちの世代も、苦労に苦労をかさねて、ようやく人並みの生活ができるようになり、さらに子や孫も生まれ、豊かな自然を享受しながら老後を送れると思っていた。そういう彼らを原発事故が襲った。

 津島地区の原状回復(環境復元)を求める訴訟に住民たちの約半数が加わった。2015年に福島地裁郡山支部に提起され、2021年の判決は、原発事故の国の責任を認めたものの原状回復の法的義務は認めなかった。現在、仙台高裁で控訴審がたたかわれている。わたしは、その弁護団の事務局長を務める。

 

〈国から棄てられる人びと〉

 先ほどの女性の、「満州での逃避行と原発がつぎつぎと爆発し、放射能に追われ逃げ惑う姿が、どこか似ているような気がする」ということばは示唆的である。国の「国策」によって親に抱かれて大陸に渡った。その挙句に死と隣り合わせの「逃避行」を経験した。戦後、津島地区での開墾も極貧の生活も「国策」に従った結果だった。そして、「国策」で進められた原発が過酷事故を起こし、彼女たちは「逃げ惑う」ように避難した。その姿が「どこか似ている」という。本来、住民の安全を確保すべき国が、自分たち住民を放射能汚染の危険のまっただなかに放り出して棄てたという思いが、彼女の胸のうちに湧き上がっている。

 

〈この国は棄民の国か〉

 昨年2024年12月、津島訴訟を支援する、東京での初めての集会が開催された。100名をこえるかたがたが参加して熱気あふれる集会となった。その集会で関礼子・立教大学教授が「この国は棄民の国か」と題する講演をおこなった。関教授はこう述べた。「津島では、非常に口当たりの悪い耳障りな言葉ではありますけれども、あえて『棄民』という風に呼んでも差し支えないほど人間性を禁じられる、そういう出来事が刻まれてきました。戦争、原発事故避難、そして原状回復なき帰還です。(中略)山野を切り開き、お互いに助け合いながら、元々いた旧農家の人々と人間味あふれる地域、豊かな集落というものを築いてきたわけです。そうして作られてきたふるさと津島というものが、2011年3月の原発事故で奪われてしまいました。(中略)国の帰還政策で、虫食い状態でしか除染されていない土地に、帰還希望者を募るという方針が、いま現に進んでいるわけであります。これは国に見捨てられ、あるいは放置されている、3度目の津島の悲劇ではないでしょうか」。

 津島地区ではごくごく一部の狭い場所で除染作業がなされている。帰還する人の自宅だけを除染しますというのが、いまの政府の帰還政策である。自分の自宅だけを除染してもらっても、近隣や里山など周辺環境が汚染されたままでは生活できない。放射性物質が風にとばされ雨に流されもとの黙阿弥になってしまう。ポツポツと虫食い的な「点」の除染でなく「面」の除染が不可欠である。そのことをわかっていながら政府がそういう政策を進めるのは、「やりましたよ」というポーズだけをとって幕引きをはかろうとしているからである。これは、戦中の満蒙開拓団、原発事故避難につぐ、3度目の悲劇・「棄民」ではないかと関教授は指摘するのである。

 

〈あたかも福島第一原発事故を忘れ去ったかのごとくに〉

 日本に原子力を導入したのは企業ではなく国家だった。1950年代、この国に原発に取り組む電力会社がいっさい存在しなかった時代だった。予算をつくり、法律をつくり、閣議決定によってオーソライズされた「国家計画」が行政はもとより企業までも縛り、1基ごとの原発建設までも国家計画で決定した。こうして、国は「国策」として積極的に原発を推進した。しかし、2011年3月の福島第一原発事故は「電源を失って熱的制御不能に陥れば大量の放射性物質を撒き散らす」という原発の壊滅的危険性を広く国民に認識させた。国は政策の大転換を迫られた。経産省が策定する「エネルギー基本計画」さえも、「原発依存度を可能な限り低減する」との方針を掲げざるをえなくなった。

 ところが、いま国は、もう一度、原発推進に乗り出そうとしている。昨年末2024年12月17日、「エネルギー基本計画」の素案がマスコミに大きく取り上げられた。その特徴は、第1に「原発依存度を可能な限り低減する」との従前の方針を削除したこと、第2に原発は再生可能エネルギーとともに「最大限活用する」としたこと、第3に原発の建替え方針を緩和し増設を事実上認めたことであった。国の責任を否定した2022年6月17日最高裁判決をうけて、岸田内閣は「原発回帰」に政策を転換させた。石破内閣はこれを推し進め、「原発推進」の姿勢をいっそう鮮明にしようとしている。あたかも福島第一原発事故を忘れ、避難生活を余儀なくされている大勢の被害者の存在を無視するかのごとくである。

 

〈帰っちぇえなぁ、津島に〉

 関教授は、津島に帰りたいという住民たちの思いを講演で語った。「ある人はこのようにおっしゃいました。『津島の絆は強かったなというふうに思う。年配の人は、『うちに帰っちぇえな。帰っちぇえなぁ、津島に』と言いながら亡くなっていきました』」。冒頭で紹介した年輩の女性は、「悲喜こもごもの思いがあった津島だが、家族の思い出、隣近所の思い出のある、あの場所で、残りの人生を暮らしたかった」と語った。津島の原発被害者たちの多くが同じ思いをかかえて異郷の地で暮らしている。津島地区が安心してもどれる安全な場所になるよう原告団も弁護団も訴訟で微力を尽くしてたたかっている。昨年2024年10月18日、高裁段階での2度目の津島地区現地進行協議(事実上の現地検証)が実施された。裁判官は熱心に津島地区のあちこちを見分して回った。被害の実相は充分に裁判所に伝わったと実感している。裁判長は法廷で、2015年夏の結審をめざす方針を示した。2015年度のうちの判決が見込まれる。わたしどもは、津島地区を住民たちの手に取り戻すまでたたかい続ける決意である。そして、津島の住民たちの被害を多くのかたがたに伝えていこうと思っている。(以上)