人権の重み 弁護士白井劍
〈人権の重みを浮き彫りにした2つの判決〉
2025年2月末から3月にかけて、死刑囚の処遇をめぐって注目すべき2つの判決が出された。1つは2月28日大阪地裁判決。弁護士宛ての手紙が拘置所によって墨塗りされたことの違法性が問われた事件である。もう1つは3月17日大阪高裁判決。死刑を執行することを当日に告知する運用の違法性が問われた事件である。いずれも人権の重みを浮き彫りにする判決だった。その報道にふれて、ある種の感銘をわたしは受けた。
〈手紙の墨塗り〉
2月28日大阪地裁は国に66,000円の賠償を命じた。原告は大阪拘置所に収容されている死刑囚。2022年6月この死刑囚から法テラス愛知法律事務所に所属する弁護士に手紙が送られた。この弁護士は死刑囚の処遇の問題に詳しい。監獄人権センター事務局長を務め、刑務所の処遇に関する多数の国家賠償請求訴訟を担当する。届いた手紙は大部分が墨塗りされていた。外部交通(面会、手紙などによる刑務所外とのやりとり)を不当に制限されたとして国家賠償請求訴訟が2023年に提起された。審理の過程で墨塗り部分に書かれていた内容が明らかにされた。大阪地裁は、「いろいろと相談したいので再審請求弁護人になってほしい」「処遇の件で国賠訴訟の準備を進めている。その力になってほしい」「再審請求弁護人宛ての手紙が抹消される。完全な嫌がらせだと思う。なんとかしてほしい」などの部分を墨塗りしたことは国家賠償法上違法であると判断した。
〈死刑執行の当日告知〉
死刑執行は当日告知(執行1、2時間前の告知)が現在の運用である。法令上の根拠があるわけではなく、あくまでも運用の問題である。死刑囚2名がこの運用は違憲であるとして訴訟を提起した。適正手続の保障を定める憲法第31条に反するという主張である。当日告知の執行を受け入れる義務がないことの確認と損害賠償を求めている。一審の大阪地裁は訴えを却下した。いわゆる門前払いの判決である。地裁は1961年12月5日の最高裁判決を根拠とした。この最高裁判決は、刑法が定める絞首刑という執行方法(刑法第11条「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」)の違憲性が主張された事件であった。最高裁は、「現在の法令による執行方法が違法である」と主張するのであれば刑事裁判において争うべきであるとしたうえで、当該訴訟は「行政事件訴訟をもって刑事判決の取消変更を求めることに帰し」不適法であるとした。前記大阪地裁判決は、この最高裁判決を機械的にあてはめ、執行方法の違法性を訴える訴訟は行政事件訴訟をもって刑事事件の死刑判決の取消変更を求めるもので許されないと判断した。これに対し、3月17日の大阪高裁判決は、前日までの告知でも適法に執行することは十分可能であり、訴えを認めても死刑判決そのものの取消変更を求めることにはならないと判断した。そして、一審判決を取り消し、審理を差し戻した。なお、損害賠償請求については地裁でも高裁でも認められなかった。
〈ひどいことをした人だからといって当然ではない〉
墨塗り事件の裁判で、国は、死刑という最も重い刑を受ける身であるから、「刑罰に伴う制裁」があるのは必然であって、外部と自由にやりとりさせることは「国民感情も許さない」などと主張した。執行の告知についても、米国やかつての日本のように事前に告知し最後の別れや身辺整理の機会を与えるという運用も充分にありうるはずである。これとの対比で言えば、当日告知は「刑の執行以上の苦痛を加えるもの」というべきである。いずれの問題についても現在の運用は、ひどいことをした人なのだから自由が抑圧され苦痛を伴うのは当然という感情に支えられている。
たしかに、ひどいことをしたことは間違いない。複数の人命を奪った残忍な犯行である。下品な言い方だが、まさに胸くそが悪くなる事件ばかりである。しかし、事件の残忍さに目を覆われてしまうと拘置所内のことに目が向かなくなる。考えなければならないのは人権というものの意味である。ひとが人として生まれながらにもっている権利である。どんなにひどいことをしたとしても、だからといって人権が保障されなくてもよいとは思われない。「ひどいことをした人だから刑罰を超える制裁があってしかるべき」という考えは、行政が「ひどいこと」をするとき、これを正当化するために悪用されている。むしろ、そのことに注意を払わなければならない。
〈行政目的のための広範な裁量は理由にならない〉
墨塗りにせよ執行の当日告知にせよ、いずれの運用についても国が理由にするのは死刑囚の「心情の安定」である。刑事収容施設法のこの言葉が施設側に都合よく解釈されてきた。そして、死刑を確実に執行するという行政目的のために、「広範な裁量」があると説明されてきた。たしかに、一般論として行政に裁量があることは間違いない。しかし、行政に都合よく物事をすすめるために人権を抑圧することが行政の裁量であるとは思われない。裁量が果てしなく肥大化する、その歯止めとして人権がある。「再審請求の弁護人になってほしい」という手紙を墨塗りすることは裁量権を逸脱し濫用するものである。人生の最期を迎える前に最後の別れや身辺整理をする、その機会を奪うことは裁量権を逸脱し濫用するものである。
〈権利を主張する機会を奪う運用は許されない〉
人権を擁護するための第一歩は権利を主張する機会を保障することである。現在の運用は、まさに死刑囚が権利を主張する機会を奪っている。「(拘置所での)処遇の件で国賠訴訟の準備を進めている。その力になってほしい」という手紙を墨塗りしたのは弁護士に依頼する機会を奪っている。死刑執行の当日告知は、冤罪事件の死刑囚が再審請求をしようとする、その機会を奪いかねない。まさに権利を主張する権利が奪われるのである。現在の運用は、人権をその根っこのところで抑圧してしまう運用というべきである。
〈2つの判決が浮き彫りにしたもの〉
わたしは死刑判決事件を担当したことがない。死刑囚の処遇に関する事件を担当したこともない。しかし、2月から3月にかけて出された、これらの2つの判決の報道に接して感銘をうけた。テレビでも新聞でも、かならずしも大きな扱いではなかったとはいえ、この2つの判決は人権の重みを浮き彫りにした。その重みを、このブログをお読みくださるかたにも受けとめていただけないかと考えた。だから、パソコンに向かった。いま、こうしてこのブログを書いているのは、そういうわけである。(以上)