神田界隈~昌平橋から神田明神、そして野村胡堂 弁護士白井劍
東京あさひ法律事務所は東京都千代田区神田にある。1986年1月の事務所創立からずっと神田である。今回は神田のことを話題にしよう。そのような書き出しのブログを2024年9月26日に掲載した。これにつづくシリーズ第2回として昌平橋、神田明神、そして野村胡堂をとりあげる。
〈昌平橋〉
神田司町2丁目の東京あさひ法律事務所から外堀通りに出て、淡路町方向にまっすぐに歩く。淡路町交差点を超えワテラスや神田郵便局を通り過ぎると「昌平橋」(しょうへいばし)に出る。橋の下を神田川が流れる。橋の起源は寛永年間(1624~1645年)にさかのぼる。当時の名は「いもあらいばし」。1691(元禄4)年に「昌平橋」に改名された。近くに、孔子を祀る湯島聖堂が建てられたからである。孔子が生まれた「昌平郷」にちなんだ命名であった。 何度も架け替えられている。
現在の橋は1923(大正12)年4月に造られた鉄筋コンクリートの橋である。その年12月の関東大震災でも大きな損傷を受けなかった。じつは神田川には湯島聖堂にちなんだ橋がもうひとつある。JRお茶の水駅に隣接する「聖橋」である。こちらは関東大震災後につくられた。公募により「聖橋」となった。湯島聖堂とニコライ聖堂という二つの聖堂があることが理由だった。「昌平橋」は102年、「聖橋」も98年にわたって幾多の試練を生き抜いてきた。
〈神田明神下〉
昌平橋を渡って直進すると、「神田明神下」の交差点に行きつく。神田明神は周囲をみはらす崖の上にある。そのことは裏参道にまわると明瞭になる。神田明神の崖下の町々が「神田明神下」と呼ばれてきた。現在の外神田2丁目から3丁目にかけての地域にあたる。「神田明神下」といえば「銭形平次」を思い出すかたもいらっしゃるかもしれない。作家の野村胡堂が生んだヒーローである。「神田明神下」の台所町に住む目明しという設定だった。拷問と自白偏重が当然だった時代に科学的捜査と合理的推論で難事件を解決する。いってみれば、人権感覚に富み頭脳明晰な敏腕刑事であった。
〈神田明神の大鳥居と随神門〉
先ほどの裏参道とは反対側の、表の参道に回る。大きな鳥居をくぐると、朱色と金色が鮮やかな「随神門」が見える。
〈3人の祭神のひとりは平将門〉
神田明神は「平将門」を祀る神社である。3人の祭神のひとりが将門である。ほかの2人は、大己貴命(おおなむちのみこと・「だいこく様」)と少彦名命(すくなひこのみこと・「えびす様」)である。社伝によれば、いまから1300年近く以前、730(天平2)年に創建された。現在の千代田区大手町(当時の地名は武蔵国豊島郡芝崎村)にあった。そのときの祭神は「だいこく様」だけであった。940年に平将門が朝廷に敗れて処刑された。その後、天変地異が頻発し、将門の「御神威」として恐れられた。将門は、1309(延慶2)年神田明神に「だいこく様」とともに祀られることになった。
1600(慶長5)年、関ケ原に出陣する徳川家康が神田明神に戦勝の祈祷をし、勝利をえた。その縁から徳川幕府が尊崇する神社となり、1616(元和2)年、江戸城の表鬼門守護の場所にある現在の地に移遷された。江戸期を通じて「江戸総鎮守」とされてきた。1874(明治7)年、天皇行幸にあたり、朝廷に反逆した平将門が祀られていることに政府内で批判がおこり、将門は祭神からはずされた。その代わりに、「えびす様」が「だいこく様」とともに祭神となった。祭神からはずされても、将門は庶民の間に根強い人気があった。それから90年後の1984(昭和59)年、祭神に復帰した。
将門は「厄除け、勝運の神様」とされてきた。戦国期には太田道灌、徳川家康など多くの武将が信仰した。いわば、「勝負ごとの神様」である。弁護士の仕事は、ある意味では「勝負ごと」である。うちの事務所を1986(昭和61)年1月に創立したときも所員全員でお参りにきた。わたし自身は、その後もたびたび神田明神に足を運んだ。たいていは、事件でカベにぶち当たって行き詰ったときだった。ひとりでお参りし、ぶつぶつ言いながら境内を歩き回る。そうしているうちに、不思議なほどに、動揺していた気持ちが落ち着き、心が澄んでゆく。
〈銭形平次と八五郎の碑〉
社殿の裏側に回ると、石に彫られた「銭形平次」の碑がある。1970(昭和45)年に出版社、映画会社、テレビ局、そして長谷川一夫と大川橋蔵が発起人となって建立された。石碑の台座は、巨大な「寛永通宝」である。
銭形平次の碑の脇に、ごく小さな石碑がならんでいる。「おやぶん、てぇへんだ」と平次宅に駆け込んでくる、子分の「八五郎」の碑である。隅っこでこじんまりと目立たないでいる、しかも下手くそな文字の石碑。「八五郎」らしい雰囲気を醸し出していて、なんともかわいい。
〈セミの抜け殻〉
神田明神に人を案内してきたことは何度もある。多くは司法修習生や弁護士である。先輩弁護士の頼みで、海外からきた学者を連れてきたこともある。かれは秋葉原に行きたがった。秋葉原で買い物をしたあと、神田明神まで足を延ばした。壮麗な社殿に感激し、感謝してくれた。遠来の友人を連れてきたこともあるし、ひょんなことから依頼者といっしょに来たこともある。思えば、いろんな人といっしょに来たものだ。お参りをしたあと境内のあちこちを見て回る。境内の端に等身大の銭形平次がいる。十手を構え、投げ銭のポーズをとって立っている。記念撮影用の人型パネルである。顔がくり抜かれている。あるとき、わたしは戯れにそこに自分の顔を挿し入れてみた。やはり人を案内してきたときのことだった。美しい人だった。わたしの顔をみていきなり笑い出した。幼い子どものように、腹をよじって笑っている。怪訝な顔をするわたしに、「だって」と言いながら近づいてきて、「頭にセミを載せてるから」と言った。見ると木製の平次のパネルの頭にセミの抜け殻がくっついている。誰かのいたずらだろう。そう思って取ろうとしたが、容易に取れない。脚の爪がパネルにかたく喰い込んでいる。地中から出てきた幼虫が樹木と間違えてパネルによじ登り、しっかりと脚をふんばって脱皮した。そんなふうに想像された。それ以来、神田明神にくると、いつもセミの抜け殻を思い出す。
〈野村胡堂の旧居跡〉
さて、銭形平次の生みの親、野村胡堂のことである。東京都世田谷区の砧(きぬた)の、わたしの自宅から徒歩数分のところに、「野村胡堂旧居跡」がある。いまは鉄骨鉄筋のりっぱな住宅が建っている。ひと様のお宅である。その塀沿いに世田谷区教育委員会が説明の立札を立てている。 立札には、「野村胡堂(1882~1963 本名長一)は昭和7年(1931)の春、子どもたちの通学の便を考慮して、鎌倉の稲村ケ崎よりこの地に転居、借家して昭和14年12月まで居住した」とある。この説明の「昭和7年(1931)」は間違いであって、昭和7年ならば1932年のはずであるし、1931年が間違いなければ昭和6年である。1939年まで7年ないし8年のあいだ住んだわけである。また、「野村胡堂は明治15年(1882)10月15日、岩手県紫波郡に生まれ、盛岡中学在学中には、金田一京助、石川啄木らと交流を持った。東京帝国大学法科大学中退後、明治45年に報知新聞社へ入り、昭和17年まで在社」「昭和6年から昭和32年にかけては、『銭形平次捕物控』を総計383編を発表、一世を風靡した」と述べられている。この「報知新聞」は、スポーツ専門紙になる以前の一般紙の報知新聞である。胡堂が入社した明治末から大正にかけては、東京日日、時事、國民、東京朝日とならぶ大新聞で、「東京でもっとも売れる新聞」と言われた。
胡堂が借家をしていた当時の住所は、「東京府北多摩郡砧村字宇奈根上乃台」である。現在の世田谷区砧は、当時は、「北多摩郡砧村」であった。この地で胡堂が詠んだ短歌が立札に掲載されている。
「砧村富士を見る日の多くして 朝夕の軒なつかしむかな」
いまでも晴れた日には富士山がよく見える場所が砧にはいくつかある。当時は高いビルもなかったし、大気汚染もひどくなかったろうから、あちこちで、もっとよく見えたことだろう。(以上)