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「トライ」教材の誤情報問題と水俣病、そして胎児性水俣病 弁護士白井劍

「トライ」教材の誤情報問題と水俣病、そして胎児性水俣病 弁護士白井劍

 

〈オンライン教材で配信された誤情報〉

 オンライン教材に、「この病気が恐ろしいのは、遺伝してしまうことです」という誤った情報が掲載されていた。中学社会科で「水俣病」についてのべられたくだりだった。2025年5月23日から24日にかけて全国のテレビ、新聞で報じられた。家庭教師派遣や学習塾を全国的に展開する「トライグループ」が配信する映像授業サービス「トライイット(Try IT)」の誤情報である。「トライグループ」は、アルプスの少女ハイジが登場する「家庭教師のトライ」のテレビコマーシャルで知られる。元女優が代表取締役社長を務めることが話題になったこともある。ホームページによると、2024年9月時点のグループ全体の社員数は1546人で、同年3月時点の登録教師数は33万人。「トライイット」は2015年7月から始まっている。映像授業は大勢の中学生に視聴された。おそらく視聴者の多くは、疑いもせず鵜呑みにしてしまったことだろう。

 

〈水俣病は遺伝しない〉

 水俣病は遺伝することはない。感染することもない。

 加害企業チッソの水俣工場では触媒として水銀が使用されていた。製造過程で生成された有機水銀化合物が工場廃液に混じって大量に水俣湾内に垂れ流された。有機水銀は、プランクトンから小さな魚、これを食べる大きな魚へと移っていく。漁師は魚を獲り漁協に持ち込むが、もちろん自分でも毎日食べる。有機水銀に汚染されていることを知らないまま、家族とともに食することになる。そのような食物連鎖の結果、人の体内に有機水銀が蓄積され、やがて有機水銀中毒、すなわち水俣病が発症する。原因は、あくまでも加害企業が垂れ流した有機水銀である。遺伝や感染が原因ではない。

 念のためにいえば、汚染は水俣湾内だけではなかった。チッソは原因を隠ぺいするために、通産省の指導で、工場廃液の排出口を湾内から湾外の水俣川河口に移動した。そのため汚染が水俣湾内から不知火海一円に一挙に拡大し、水俣病患者の発生もまた不知火海沿岸に拡大していった。

 

〈教材の記載〉

 かつて、患者が多発して原因不明とされた時期には、患者や家族たちは、遺伝や感染という偏見に悩まされ苦しめられた。しかし、原因がチッソの工場廃液のなかの有機水銀であることを熊本大学研究班が解明したのちは、そのような偏見は解消した。すくなくとも当時の関係者はそう信じていた。

 しかし、実際には、その後も誤解にもとづく、さまざまな差別・偏見が被害者たちを苦しめてきた。1956年水俣病公式確認から69年経った現在でもなお、トライの誤情報によって、あらたな差別・偏見が生まれかねない事態となった。教材の記載は、つぎのとおりであった。

 「熊本県の水俣湾沿岸で発生した公害が水俣病です。原因物質は工場排水に混じった有機水銀です。有機水銀が海に流れ、魚の体内に入り、魚を食べた人間の体内に入りました。この病気が恐ろしいのは、遺伝してしまうことです。妊婦さんが水俣病にかかり、生まれてきた赤ちゃんまでもが発症することがありました」。

 おそらく、担当者は、「胎児性水俣病」のことを聞きかじり、生半可な知識で教材を作成したのだろう。

 

〈胎児性水俣病〉

 「胎児性水俣病」は、胎盤を経由して起こる水俣病である。母親の体内の有機水銀が胎盤を通して胎児に移動する。母親の胎内にいるときに有機水銀中毒となり生まれてくるのである。魚を食して発症したわけではない。だから当初は水俣病とは無関係の脳性小児まひと考えられていた。

 原田正純先生が岩波新書「水俣病」72頁以下に、1961年8月に胎児性患者と初めて出会ったときのことを書いている。水俣湾の明神崎に水俣病患者を往診に行った際、近隣で10歳と6歳の兄弟を見かけた。母親は「兄は水俣病です。下のは水俣病ではなく脳性小児まひです」と言った。兄弟の症状はよく似ている。しかし、そう診断されていると言う。理由を尋ねると「魚を食べておらんですたい。生まれつきです」と言う。父親は60年に水俣病で死亡している。その地域には弟と同時期に生まれた脳性小児まひ児が大勢いた。その後、脳性小児まひとされていた子どもたちがじつは「胎児性水俣病」であることが解明されていく。

 胎盤は、血液胎盤関門といわれ、胎児の生育に必要な栄養や代謝物を選択的に運び入れる一方、有害物質の透過を防ぐ関門の役割を果たしている。有害な有機水銀が胎盤を通過してしまうことは当時の医師たちにとっても衝撃的な発見であったはずだ。しかも、意外なことに、有機水銀は、母体よりも胎児のほうにはるかに大きな影響をおよぼす。胎児性水俣病患者の母親は、症状がごく軽いことも多く、まったく症状がないことも珍しくない。母親が水俣病を発病しているとは限らないのである。トライの記述は胎児性水俣病の説明としても不正確である。

 原田正純先生は岩波新書「水俣病は終わっていない」124頁でつぎのように述べている。「胎児性患者、上村智子ちゃんは昭和52年12月5日、20歳の短い生涯を終った。お母さんの良子さんの口ぐせは『この子は宝子(たからご)ですばい』であった。その理由はいくつかあるが、一つは『この子が私の水銀を全部吸いとってくれたので、私は何とか元気で、そのあと6人の元気な子供たちを産むことができた』ということで、智子がみんなの健康を保障したのだという。もう一つは、このような障害をもった姉をみて暮らした下の子供たちが母に頼らず、それぞれお互いに助けあい、自立していき、障害者に対するやさしさをもったことだという。『智子のために、母親の手伝いも何もして、みんながおりこうに、やさしく、助けあい育ってくれた』と母親は目を細めていう。確かに、この妹たちはやさしく、たくましい」。

 そして、原田先生は、「胎内で母親の水銀を吸いとったことも現在の医学では事実であり、子供たちが生と死の間にさまよう姉からさまざまなことを学びとったことも、事実であった」と結んでいる。

 

〈知った者の責任〉

 原田正純先生は、水俣病東京訴訟のために意見書を書き、証人として出廷してくださった。当時は、うちの事務所にもよく出入りなさっていた。わたしはあるとき原田先生に、水俣病に献身的に取り組んでこられた理由を質問したことがある。「みちゃったんですよ、ぼくは」とおっしゃった。事実を知った者には責任が生じる、自分は関係ないとは言えないのだという趣旨をおっしゃった。2012年6月11日に他界なさった。文字どおり、水俣病にささげた生涯であった。(以上)