「気骨の判決~東條英機と闘った裁判官」を読んで 弁護士白井劍
〈3度読んだ「気骨の判決」〉
新潮新書の「気骨の判決~東條英機と闘った裁判官」を読んだ。著者は、清永聡(きよながさとし)氏。NHK記者・解説主幹。司法の歴史のエキスパートである。2024年4月から9月まで放映された超人気番組「寅に翼」は氏の著書「家庭裁判所物語」(日本評論社)がベースになっていた。番組のメインタイトル映像にも「取材:清永聡」がクレジットされた。わたしは、「気骨の判決」を、それが出版された2008年に読んだ。翌2009年夏にテレビドラマ化された番組を見て、また読んだ。今回は3度目であった。16年も経ってまた読もうという気になったのは、福島原発事故の国の責任を否定する、一連の「気骨のない判決」の流れを変えるヒントになりはしないかと思ったからである。
〈翼賛選挙〉
「気骨の判決」の冒頭はつぎのとおりに始まる。「国会議員を選ぶ選挙で、政党が存在しない。その代わりに、事実上政府が定員と同数の候補者を推薦する。もちろん気に入らなければ、その人に投票しなければいい。しかし、推薦候補者の選挙費用は国が出し、選挙運動は警察、都道府県、市町村、さらには自治会レベルで後押しされている。地域によっては推薦候補者に投票しないと非国民と呼ばれてしまい、配給を止めるぞと脅かされる。さらに、誰に一票を投じたか調査される所まである。どこかの独裁国家の話ではない。日本で実際にあった選挙である。昭和17年の衆議院議員選挙がそうだった」。
「昭和17年の衆議院議員選挙」とは、1942年4月に実施された第21回衆議院議員総選挙のことである。一般に「翼賛選挙」と呼ばれる。太平洋戦争中に実施された唯一の国政選挙である。東條英機内閣が主導した。東條は「翼賛政治体制協議会」(略称「翼協」)という組織を作らせた。要請を受けた「翼協」が候補者を推薦する。「翼協」の推薦を得た「推薦候補」は半数が現職議員であり、それ以外は陸海空軍関係者、官僚、地方議員、財界人など、政府と軍部の意向に従順に従うイエスマンばかりであった。共産党はとっくに非合法化されて事実上壊滅していた。そのほかの政党はすべて自主解散していた。有権者には政党を選ぶ選択肢はなかった。「推薦候補」か「非推薦候補」かの選択だけだった。
〈推薦候補の支援と非推薦候補の選挙妨害〉
国家ぐるみで「推薦候補」の支援がおこなわれ、「非推薦候補」に対する露骨な選挙妨害を国、自治体、警察、学校が推し進めた。たとえば、警察署長が地域の会合に出席して推薦候補への投票を呼びかけ、非推薦候補の演説会を聞きに行く者は非国民だから手が後ろに回るぞと脅かす。国民学校の校長が推薦候補に投票するよう父兄に伝えるよう児童たちに話す。さらに、非推薦候補が当選すると日本が戦争に負けると言う。町長が住民に非推薦候補に投票する者は国賊であり配給品をやれないと脅す。県知事が推薦状の作成を命じたり、選挙区の地盤割りをおこなわせたりする。その結果、推薦候補の80パーセントが当選し、衆議院は圧倒的な数の推薦議員で占められた。こうして、軍部に対する議会の批判はほぼ封じ込められてしまった。戦争遂行を軍部の思いどおり支障なく進めるために、軍の方針に反対する議員を国会から駆逐することが狙いであったと言われる。
〈選挙の無効を求める訴訟〉
「翼賛選挙」の無効を求める訴えが各地から提起された。制度上いきなり大審院(現在の最高裁にあたる)に持ち込まれる。第1審であり同時に最終審となる。証拠調べも大審院でおこなわれる。判決に上訴はできない。最高裁と異なり、大審院は民事部と刑事部に分かれ、民事部は第1民事部から第5民事部まであった。第1民事部は鹿児島3区を、第2民事部は長崎1区と福島2区を、第3民事部は鹿児島2区を、第4民事部は鹿児島1区を、それぞれ審理することとなった。各民事部には、裁判長(部長)1名と陪席裁判官4名の計5名の判事がいる。第3民事部の部長を努めていた吉田久は、最初に訴状を読んだときの印象を戦後にこう書き残している。「これは容易ならぬ由々しき事件である。もし原告の主張する事実が真実とすれば、すくなくとも鹿児島2区の選挙は無効とならざるをえないと考えた」。
〈果敢に動いた吉田久裁判官〉
選挙を無効とする根拠は当時の衆議院議員選挙法第82条「選挙の規定に違反することあるときは、選挙の結果に異動を及ぼすおそれのある場合に限り、裁判所はその選挙の全部または一部の無効を判決すべし」であった。「翼賛選挙」のような組織的な選挙干渉や選挙妨害が、選挙を無効としうる「選挙規定の違反」に当たるのかどうか、担当部によって解釈がわかれる可能性があった。吉田久裁判官は果敢に動いた。各民事部の部長に呼びかけて裁判官会議を開き、「たとえ政府であっても、選挙の自由公正を害する大規模な選挙干渉・選挙妨害をすれば、それは選挙の規定に違反するものである」と、解釈を統一することに成功した。さらに吉田は部下である4人の判事たちを連れて鹿児島での出張尋問をおこなった。第3民事部だけで187名の証人の尋問を敢行した。
〈司法省に従属する裁判所〉
当時は司法に独立性がなかった。裁判所構成法に「司法大臣は各裁判所および各検事局を監督す」と定められ、大審院も含め裁判所はすべて司法大臣の監督下にあった。予算も人事も司法省のコントロール下に置かれていた。
〈選挙無効の判決〉
結果をいえば、第1、第2、第4民事部の4つの判決は原告敗訴であった。第3民事部だけがそうではなかった。戦争末期の1945(昭和20)年3月1日、鹿児島2区の翼賛選挙を無効とする判決を出した。吉田久裁判長が言い渡した判決主文は、「昭和17年4月30日施行セラレタル鹿児島県第2区ニオケル衆議院議員ノ選挙ハコレヲ無効トス。訴訟費用ハ被告ノ負担トス」であった。判決理由で、吉田は翼賛選挙の問題の本質に切り込んだ。「政治体制協議会のごとき政見政策を有せざる政治結社を結成し、その所属構成員と関係なき第三者を候補者として広く全国的に推薦し、その推薦候補者の当選を期するために選挙運動をなすことは、憲法および選挙法の精神に照らし、果たしてこれを許容し得べきものなりやは、大いに疑の存するところ」
〈さまざまな圧力と死を覚悟した判決言い渡し〉
翼賛選挙の事件を担当するようになってから、吉田久は特高警察の尾行を受けるようになった。自宅から大審院への通勤には目つきの鋭い男がずっとあとを付けてくる。吉田の自宅に書類を届けに来る職員も尾行された。さらに、吉田が講師を務めていた中央大学の教室や控え室にまで特高警察が来ていた。吉田の妻は戦後、「一時は、自宅のまわりがずらりと憲兵に取り囲まれたこともありました」と語っている。
1944(昭和19)年2月28日全国から裁判所幹部が集まる臨時の「会同」(※)が開催された。司法省で会議をおこなったのち司法官たちは天皇に拝謁し、さらに首相官邸に向かった。官邸では総理大臣東條英機が、陸軍大将の軍服姿に長靴を履き、腰にサーベルを吊るして待っていた。東條は集まった司法官たちを前に演説をおこなった。そのなかに、つぎのようなくだりがあった。「私は司法権尊重の点において人後に落つるものではないのであります。しかしながら、勝利なくしては司法権の独立もありえないのであります。かりそめにも心構えにおいて、はたまた執務ぶりにおいて、法文の末節にとらわれ、無益有害なる慣習にこだわり、戦争遂行上に重大なる障害を与うるがごとき措置をせらるるにおいては、まことに寒心に堪えないところであります。万万が一にもかくのごとき状況にて推移せんや、政府といたしましては、戦時治安確保上、緊急なる措置を講ずることをも考慮せざるをえなくなると考えているのであります」
戦争遂行に障害を与えるような判断をすれば、政府は非常手段をとる、と東條は恫喝した。戦争遂行上に重大なる障害を与うるとは、翼賛選挙を無効とする判決を指している。万が一にもそのような判決を出すならば、大審院裁判官といえども容赦しないぞという脅しであった。
吉田は、証人尋問のために鹿児島に長期出張するにあたって遺言状をしたためたという。そして、判決言い渡しの日の朝は、「もう、帰って来られないかもしれない」と言い残して自宅を出たという。
判決言い渡しから4日後、吉田は追われるように、大審院裁判官の職を辞した。
※ 会同=かいどう:特定の目的のために特定の多数の人々が一か所に 集まること。会合よりもオフィシャルで格式ばった意味あいが強い。裁判官の会合は多くの場合、会同と呼ばれる。
〈ご一読をお勧めしたい〉
本稿では概要を述べたに過ぎない。「気骨の判決」は綿密な事実調査にもとづき丁寧に翼賛選挙と吉田判決を追っている。そして、大勢の人びとがこの判決に勇気づけられたことを感動的に描いている。さらには、吉田久の生い立ちや大審院裁判官になるまでが明かされる。その人柄、裁判官としてどのような仕事をしてきたかまで丹念に叙述している。司法史として興味深いだけでなく、ひとりの人間の生きざまを描いたノンフィクションとしても出色である。安易に時流に流されることなく、生命の危険にさらされながらも正義を貫きとおした吉田久裁判官の生涯は、人はどう生きるべきかをするどく問いかけてくる。たとえば、こんなエピソードが紹介されている。あるとき「正義とはなにか」と人から問われて、吉田久は、「正義とは、倒れているお婆さんがいれば、背負って病院に連れて行ってあげるようなことだ」と答えたと言う。ぜひご一読をお勧めしたい。
〈「気骨の判決」と「気骨のない判決」〉
本稿の冒頭に、「気骨の判決」を3度も読もうという気になったのは、福島原発事故の国の責任を否定する、一連の「気骨のない判決」の流れを変えるヒントになりはしないかと思ったからと述べた。残念ながらヒントは得られなかった。しかし、時流に流されることなく、「原子力ムラ」の圧力にも屈することなく、国民の安全確保を最優先に考え、国の責任を断罪する勇気をもった裁判官が、原発事故の国の責任を問う各地の多数の訴訟のなかにはきっといるに違いない。そのような裁判官が出てくることを期待する。「気骨の判決」を読みながら、そういう気持ちになった。(以上)