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神田界隈 ~太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ) 弁護士白井劍

神田界隈 ~太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ) 弁護士白井劍

 東京あさひ法律事務所は東京都千代田区神田にある。1986年1月の事務所創立からずっと神田である。今回は神田のことを話題にしよう。そのような書き出しのブログを最初に掲載したのは2024年9月26日だった。今回は「神田界隈」シリーズ第3回として太田姫稲荷神社をとりあげる。

〈神田駿河台のビル街にある神社〉
 「太田姫稲荷神社」は神田駿河台のビル街にある。神田で働く人びとが訪れる。神田に住む人びとはもちろんである。駿河台東部町会、駿河台西町会、小川町2丁目南部町会、錦町1丁目町会の4つの町会を氏子とする。

 
 東京あさひ法律事務所から太田姫稲荷神社までは徒歩7~8分である。事務所から小川町交差点を経由して行く。小川町交差点は靖国通りと本郷通りが交わる交差点である。本郷通りはお茶の水方面に向かって上り坂になる。
 坂を上り始めたところに「笹巻けぬきすし」がある。「創業元禄十五年」の看板が目にはいる。「けぬきすし」から少し坂をのぼると、住友海上火災保険の巨大なビルがある。
 その手前を左に折れると、「駿河台道灌道(するがだいどうかんどう)」に出る。本郷通りと明大通りをつなぐ道である。しばらく進むと、「太田姫稲荷神社」に行き当たる。

 

 

 

〈笹巻けぬきすし〉
 「笹巻けぬきすし」について少し書きたい。「けぬき」の由来は、魚の小骨を毛抜きで一本いっぽん丁寧に抜いたからだという。元禄15年創業だそうだ。年末に赤穂浪士の討ち入りがあった年である。元禄15年は西暦だと1702年だから320年余りの歴史があることになる。のれんには「江戸名物」と書かれている。
 弁護士10年目の年だった。秘書ふたりに、「歩いて行ける距離ならどこでもごちそうしてあげる」と言ったら、この店を指定された。ふたりとも大学を出たばかりの若い女性だった。ガイドブックに載っている有名な店だから、行ってみたいと言う。たしかに美味しかった。時代を超え多年にわたって続いてきたのも、神田の人びとにこの味が支持され愛されてきたからだろう。

 

 

〈太田道灌が京都の一口神社を江戸に勧請した〉
 太田姫稲荷神社に話をもどそう。太田道灌が京都の一口(いもあらい)稲荷神社を江戸に勧請(かんじょう)したのが起源とされている。「疱瘡(ほうそう)」に罹患して生死の境をさまよっていた娘の快癒を一口稲荷に祈願したところ治癒したことに感謝して勧請したという。1457年、当時の江戸城内に神社が建立された。
 「疱瘡」とは天然痘のことである。感染力が非常に強い。感染すれば死にいたる危険性が高く、致死率20~50%である。一命をとりとめても重い後遺症がまっている。よく知られているのは痘痕(あばた)である。夏目漱石は幼少期に罹った天然痘の後遺症で顔に痘痕があった。失明する例も多かった。伊達政宗が片目になったのは天然痘のせいと伝えられる。1980年にWHOが根絶を宣言している。
 太田姫稲荷と呼ばれるようになったのは明治になってからである。それ以前は、京都の本社と同じく「一口(いもあらい)稲荷」と呼ばれていた。「いもあらい」は「えもあらい」が転じたとされる。「穢(え)」すなわち、けがれや災いをも洗い清めてくれる神様という意味であろう。徳川家康が豊臣秀吉によって関東に封ぜられて江戸城にはいった際、一口稲荷を現在の神田錦町1丁目あたりに移した。さらに、関ヶ原を経て家康は1606年神田川のほとり、現在の聖橋付近に遷座した。寛永年間(1624~1645年)に神田明神下の神田川に架けられた橋は、「いもあらいばし」と呼ばれた。上流にあった一口(いもあらい)稲荷に因んだとされている。現在は「昌平橋」が架かっている場所である。

〈「太田姫」の由来〉
 1872年、東京府から「村社」に定められ、太田姫稲荷神社に改称した。この「太田姫」の由来には3つの説がある。ひとつの説は、太田道灌の姫君が疱瘡から快癒したことから勧請されたことに由来すると言う。ごく自然でわかりやすい説である。二つ目の説は、太田道灌が一口稲荷を勧請した際、「太田姫命(みこと)」という神が狐に化身して現われ、江戸城の鬼門に神社を建立するよう告げたとする。三つ目の説は、京都の一口稲荷を建立した小野篁(おののたかむら)にまつわるとする。小野篁が839年に隠岐に配流になった際、海上に白髪の老翁が現れ、「まもなく許されて都に帰れるであろう。しかし疱瘡を患う兆しがみえるので、我が身を写して祀るがよい。さすればその憂いはないであろう」と告げた。お告げのとおり老翁の像を刻み常に護持していたところ、やがて都に戻された。小野篁は京都の一口に神社を建立して老翁の像を祀ったという。その老翁が「太田姫命」であるという。

〈総武線開通のため現在の駿河台に〉
 1923年関東大震災で類焼したが、1928年には新築された。1931年、総武線開通工事のため、神田川ほとりから駿河台1丁目2番地の現在の場所に移転された。
 いま、JR「御茶ノ水駅」のそば、聖橋のたもとには、しめ縄を巻き付けた 大きなムクノキがそびえ立っている。その幹には、「元宮」を示す木札と神札が貼られている。かつて太田姫稲荷神社の御神木であったムクノキである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
〈近隣に住む人びとと働く人びとが頻繁に訪れる神社〉
 大きな神社ではないけれど太田姫稲荷神社には大勢の人びとが参拝に訪れる。草履履きであったり、普段着であったり、犬を連れていたりする人は一見して近隣住民とわかる。服装や持ち物から通勤途上とわかる人も多い。通勤時間帯は、「道灌道」を多くの勤め人が足早に行き来する。1分1秒が惜しい貴重な時間である。それでも鳥居の前で足を止める人がいる。男性も女性もいれば、年配者も若い人もいる。あるひとは駆けるようにやってきて突然立ち止まり社殿を見上げて軽く会釈し立ち去る。別のひとは姿勢を正し深々と頭を下げてから立ち去る。手を合わせてぶつぶつ言っているひともいる。大きな柏手の音に驚いて振り返ると若い女性だったりする。どの顔も真剣そのものである。これから始まる仕事のことも日ごろの雑事もしばし忘れて、数秒か数十秒のごくごく短時間、自分自身に真摯に向き合うのだ。神田駿河台のビル街にある神社だからこその風景である。