マリー・アントワネット 弁護士白井劍
6月のブログで、馬鈴薯の花をマリー・アントワネットが愛したことを書いた。今回は花ではなく、マリー・アントワネットその人を話題にしたい。
〈パンがなければ・・・・〉
マリー・アントワネットの発言として世に知られた逸話がある。「パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない」。彼女がそう言ったとされる。ブリオッシュは高級な菓子パンの一種。「ケーキを食べればいいじゃない」とか「お菓子を食べればいいじゃない」と翻訳されることもある。
じつをいえば史実ではない。それが定説である。マリー・アントワネットがこの発言をした証拠はない。もともとはジャン・ジャック・ルソーの「告白」に「ある高貴な女性」の発言として登場する。「告白」はマリー・アントワネットがまだ幼かった時期に出版された。「ある高貴な女性」がマリー・アントワネットであったはずはない。それにもかかわらず、彼女の発言として人口に膾炙した。重税と貧困にあえぐ民衆の苦しみを理解しない、無能で高慢なフランス王妃像をこの逸話は作り上げた。
〈ツヴァイク作の伝記〉
マリー・アントワネット伝記の最高峰は、伝記文学の名手シュテファン・ツヴァイク作「マリー・アントワネット」だろう。膨大な資料に基づき正確な史実が叙述されているのに、読み物としておもしろい。長編コミック「ベルサイユのばら」もツヴァイク作品を読んだ作者池田理代子氏の感動から生まれたそうだ。
ツヴァイクは言う。「マリー・アントワネットをギロチンにかけるためには、いっさいの手段がつくされ、あらゆる中傷が容赦もなく加えられた。新聞で、パンフレットで、書物で、この『オーストリアのふしだら女』は、ためらいもなく、あらゆる悪徳、あらゆる不品行、あらゆる種類の倒錯症の持主に仕立て上げられた」。
それらは作られた虚像にすぎないとツヴァイクは否定し去った。そのうえで、いささか思慮の浅い、ごく「平凡な人間」として彼女を描いた。「革命が彼女の天真爛漫たる遊びの世界に押し込んでこなければ、このハプスブルクの女は、あらゆる時代の何千万の女たちと同じように、のんびりと生活を続けたはずである。踊ったり、おしゃべりしたり、恋をしたり、身を飾り立てたり、ひとを訪ねたり、施し物をしたりしたことであろう」。
〈馬鈴薯の髪飾りの意味するもの〉
マリー・アントワネットの夫(のちのルイ16世)は、まだ王子だったころ、フランスに馬鈴薯(ジャガイモ)を普及させようとした。やせた土地でも収穫できる馬鈴薯は飢饉対策にうってつけだと目をつけたのだ。若いルイ16世は国王を説得するために、まず馬鈴薯の花の美しさを宣伝した。社交界の流行をリードしていたマリー・アントワネットは夫を助けるために好んで馬鈴薯の髪飾りをつけてその宣伝にひと役買った。こうして馬鈴薯の花の栽培がフランス上流階級に広まった。もっとも、まだ観賞用の花としてだったが。
つぎに、ルイ16世は国王の畑で馬鈴薯を栽培させた。そして、食用として普及させるために一計を案じた。「王侯貴族の食べ物につき、盗むべからず」と立札を立てさせ、見張りを立てたのだ。好奇心に駆られて深夜に芋畑に侵入する者が跡を絶たず、つぎつぎと盗まれた馬鈴薯は、やがて庶民のあいだに食用として広まっていった(光文社新書・稲垣栄洋著「キャベツにだって花が咲く」)。
〈なにが事実なのか〉
今回のブログでは、同一人物をめぐって3つの人物像が登場した。第1は「ブリオッシュを食べればいいじゃない」と言い放った高慢ちきな女性。第2はいささか思慮の浅いごく平凡な女性。第3は飢饉対策の政策推進を助けるためにひと役買った女性。第2と第3はいずれも証拠に基づく事実である。これに対して、第1はまったくの捏造である。証拠に基づかない「印象操作」にすぎない。しかし、この手の「印象操作」が往々にして人の判断を誤らせる。
歴史においてだけでなく、裁判の世界でも、「印象操作」が事実をゆがめることはけっして珍しくない。訴訟の相手や証人がろくな証拠もなく印象操作をし始めたらよほど警戒しなければならない。バカげた印象操作だと思っても、けっして侮ってはならない。一般に、裁判所は権威に弱い。とりわけ、相手が国や行政機関、あるいは大企業であるときは要注意である。たしかに裁判所も変わりつつあるように思う。しかし、個人の場合より、行政や大企業をより信用しがちという傾向に変わりはない。おそらくこの先も変わらない。相手の印象操作がどういうからくりかを見極めて、それが証拠に基づかない印象操作にすぎないことを、ひとつひとつ指摘しながら、打ち崩していかなければならない。
なにが事実なのか。これを見極めることは、歴史においても、裁判においても、もっとも重要なことであり、もっとも難しいことである。 以上