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やすこ先生 弁護士白井劍

やすこ先生 弁護士白井劍

 彼女は1941年福島県喜多方市で生まれた。喜多方は会津盆地の北部にある。「喜多方ラーメン」や「蔵のまち喜多方」で有名な街だ。生家は教員一家だった。父親は校長まで務めた。姉も教員になった。でも彼女は教職に関心をもたず、栄養士になる道を選んだ。福島県内の小学校が職場になった。

 栄養士として働くうちに彼女は、教員たちが子どもに真摯に向き合う場面にたびたび遭遇した。教員たちのその姿勢に心を動かされた。ルイ・アラゴンの詩に、「学ぶとは胸に誠実(まこと)を刻むこと。教えるとはともに希望を語ること」という有名な一節がある。子どもに真摯に向き合うことは教育という営みの重要な要素である。そのことが彼女に深い感銘をたびたび与えたのだった。人生の選択を彼女はし直した。教員採用試験を受け、小学校の教壇に立った。初任は南相馬市の小高小学校だった。その後、飯館村の佐須小学校、喜多方市の加納小学校大平分校、川内村の川内第2小学校、浪江小学校、津島小学校などを歴任した。

 1969年に28歳で結婚し、1979年から夫の生家である浪江町津島地区に住むようになった。津島地区は山間部にある。浪江町の西側半分を占める。原発事故前ここに約1350名が生活していた。浪江町全体の人口の約10分の1である。彼女は1981年から2001年に退職するまで20年間、浪江町の小学校で勤務した。うち8年間が津島小学校だった。津島小学校は1876(明治9)年に開設された歴史をもつ。津島村尋常小学校、津島村国民学校、津島村立小学校と改称を重ね、1956(昭和31)年5月浪江町立津島小学校となった。全校児童をあわせても100名内外の小さな小学校である。ほとんどの教員が短期間で転勤してしまうなかで、津島地区に住み農作業や牛の世話にも携わる彼女は、子どもたちにとっても保護者にとっても親しみのもてる頼りになる存在だった。明るく面倒見のよい性格でもある。2001年に教員を辞めてからも彼女は、住民たちから「やすこ先生」と呼ばれて慕われ続けた。そして、彼女にとっても津島地区は何物にも代えがたい大事なふるさとになった。

 退職して10年後、2011年3月11日東北地方を巨大津波が襲った。東京電力福島第1原子力発電所は津波による浸水のために全電源喪失に陥った。そして水素爆発にいたる。水素爆発によって原子炉建屋から吹き上げられた放射性物質は、風にのって津島地区全域に大量に降りそそいだ。津島地区住民のだれもが日常生活を断ち切られ、生活基盤を根こそぎ奪われた。

 彼女の教え子のなかに、希望がかなって東電に就職した青年がいた。何年もたたないうちに原発事故となった。青年の母親に仮設住宅で偶然に出会った。青年の様子を彼女が尋ねると、「こんなことになってしまって皆に顔を合わせられないと言って、家にこもっているんです」と返事が返ってきた。思わず声を上げた。「なにも悪くない。彼が責任を感じて苦しむ必要なんてない。お母さん、励ましてあげてね」。母親に向かって彼女はそう言った。希望をもって東電に入社した若い人の夢をも原発事故は奪ってしまった。そう思うと怒りがこみ上げてきた。

 津島地区は帰還困難区域である。原発事故から11年経った今も人が住めない。ごく限定された場所を特定復興再生拠点区域と呼んで政府は除染を進める。とはいえ、拠点区域の面積は津島地区全体の1.6パーセントにすぎない。のこり98パーセント余は除染計画もなく放置されている。1.6パーセントだけが除染されたところで生活できるはずもないから、結局は帰れない。だれも帰れない。津島に帰りたいという思いを抱き、帰りたいと言いながら亡くなる人も後を絶たない。事故前の環境に復元するなら今すぐにでも帰りたい。だれもがそう思っている。津島地区住民の約半数が環境復元と被害回復を求めて7年前に裁判に立ち上がった。彼女も裁判の原告である。法廷で裁判官にこう語りかけた。「私が津島小学校で教えた子ども達も今は子育てに忙しい世代です。自分の幼い子どもの健康を思えば、津島に戻ることはできません。『津島には帰らないよ』『フクシマには帰らないよ』。宣言するように親に言うとき、彼ら、彼女らは、悲しみに胸が押しつぶされそうです。ほんとうは、放射能さえなければ、今すぐにでも帰りたいのです。幼い子どもを連れてふるさとに帰れるようにしてほしい。皆が笑顔になれるようにしてほしい。除染の技術はどのくらい進歩しているのでしょうか。国や東電は除染の技術開発をしているのでしょうか。山は無理だなんて言わないでください。山は私たちの生活圏そのものなんですから」。

 昨年7月に福島地裁郡山支部で国と東電の法的責任を認める勝訴判決をかちとった。しかし、事故前の線量に低下させよと求めた環境復元請求は認められなかった。舞台は仙台高裁に移った。彼女は、600余名の原告たちや弁護団とともにこれからもたたかい続ける。(以上)