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ヒナゲシの花 弁護士白井劍

ヒナゲシの花 弁護士白井劍 

                                  

〈コクリコ〉

 園芸店でヒナゲシの花を見かけた。可憐な美しい花だ。花びらがまるで薄い和紙のように繊細である。思わず鉢を手に取った。見ごろは5、6月とされる。赤いヒナゲシが群生する野は地面が燃え立つようになる。別名コクリコとも呼ばれる。ジブリ映画「コクリコ坂から」の原作者は与謝野晶子の短歌「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す 君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟」から題名を採ったそうだ。

 

〈虞美人草〉

 ヒナゲシにはもう一つ別名がある。虞美人草である。両者が同じであることは向田邦子作品で初めて知った。「阿修羅のごとく」にこういうくだりがある。「『本当にあるのよ』『グビジン草?』『ほら、あの、中国から来た女の子で、胡弓みたいな、キーって声で歌うのいるでしょ。 ♪オッカノ上 ♪ヒナゲシノハナニィ』『あ、ひなげし。虞美人草ってヒナゲシのことですか』」。たしかに香港出身の歌手アグネス・チャンは、「オッカノウエ」と、のどに引っかかる歌い方をした。

 「虞美人草」は夏目漱石の小説である。先ほどの「阿修羅のごとく」の引用部分は、漱石の「虞美人草」について男女が交わす会話である。「『虞美人草』のグって、こういう字を書くのか。いやあ、長いこと、オロカって書くとばっか、思ってたから」と男性が言う。綺麗な人はオロカが多いという会話がひとしきり続く。そして、男性は「ちがう人も、いるけど」と女性を見る。

 虞美人は楚の英雄項羽の寵妃である。垓下で劉邦の大軍に包囲される。「四面楚歌」となる。包囲軍がみな楚の歌を歌うのである。楚人がみな劉邦軍に下ったと絶望した項羽は抜山蓋世の詩をつくる。「力は山を抜き気は世を蓋う/時利あらず騅(すい)ゆかず/騅ゆかんをいかんすべき/虞や虞やなんぢをいかんせん」。司馬遷の史記の名場面である。虞美人のことは、「美人あり。名は虞。常に幸せられて従ふ」と記されている。美人は美しい人という意味ではなく、妃の官名のひとつである。とはいえ、美しい人でもあったろう。賢く思いやりのある人でもあったろう。この虞美人に因んで虞美人草、つまりヒナゲシの別名が生まれた。

                       

〈ケシ〉      

 ヒナゲシはケシ科ケシ属に分類される。アヘンの材料となるケシの仲間である。18世紀末から19世紀にかけてイギリスがインドで栽培したアヘンが中国に大量に流入し吸飲や吸煙の悪習が中国社会に広まった。三角貿易で大英帝国が潤い、清帝国の人民の健康と生活が蝕まれていった。そしてアヘン戦争へとつながっていく。日本でも江戸時代からアヘンの取締りがあり明治政府もこれを引き継いだ。ただし、日本ではアヘンの吸飲や吸煙の習慣が広範に拡がったことがない。摘発される大多数は観賞用栽培の事例である(宮里勝政著「薬物依存」岩波新書612、17頁)。

 ケシとその仲間の植物(ケシ属植物)の一部は法律で栽培が禁じられる。ケシとアツミゲシはアヘン法が、ハカマオニゲシは麻薬及び向精神薬取締法(以下、「麻取法」)が栽培を禁じている(厚生労働省令等に委任の場合を含む)。禁止されたケシ属植物を栽培すれば、医薬品材料として国に納付するなど特別な場合を除き、1年以上10年以下の懲役に処せられる(アヘン法第51条第1項1号、麻取法第65条第1項2号)。

 ヒナゲシはケシ属植物。栽培してもよいのだろうか。ヒナゲシは麻薬成分を含まないから法律上栽培が禁止されない。ケシの仲間とはいえ、ヒナゲシを栽培しても何の問題もないのである。

 

〈アツミゲシ〉

 じつは話はこれでは終わらない。たしかにヒナゲシは栽培が禁止されない。でも、栽培禁止のアツミゲシにヒナゲシの花は酷似している。都道府県のホームページには、「アツミゲシは比較的小柄で、ヒナゲシと間違えられることがあります」と注意喚起しているものがある。区別は可能らしい。でも素人判断は禁物だ。花は与えられた環境で精いっぱい咲いているからこそ美しい。野に咲くヒナゲシをやたらと持ち帰るなんてことはしないほうがいい。栽培したければ園芸店で買えばよい。

 

〈混入〉

 これでも話は終わらない。園芸店での過誤が起こりうるからだ。オニゲシと間違って違法なハカマオニゲシが販売されたとか、ヒナゲシと間違って違法なアツミゲシが販売されたという過誤である。毎年のように、全国どこかの園芸店でそういう過誤が起きているらしい。

 それでは、園芸店でヒナゲシを買ったらじつはアツミゲシだったという場合、懲役刑になっちゃうのだろうか。園芸店の表示をみて買ったのだからアツミゲシ栽培の故意がないことが明らかだ。犯罪にはならない。とはいえ巻き込まれれば面倒だ。できれば避けたい。博識の店員さんが店にいたので訊いてみた。彼は、「園芸店の過誤は混入した種子が販売されたケース。成長したヒナゲシを購入すれば間違いはない。葉の形状が違うので園芸店なら容易に判別できる」と教えてくれた。写真を見せてもらった。花は酷似しているのに葉の形状はまったく違う。アツミゲシの葉は不規則なギザギザ。ヒナゲシのそれは深い切れ込みがありヨモギに似ている。

 それにしても、可憐なヒナゲシが違法植物に似ているなんて、まるで自然が仕掛けたいたずらのようだ。薄い和紙のような花びらをわたしはもう一度見た。これから6月にかけて色鮮やかなヒナゲシがあちこちで見られるだろう。(以上)