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またも負けたか8連隊 弁護士白井劍

またも負けたか8連隊  弁護士白井劍

 

〈陸軍歩兵第8連隊〉

 表題をごらんになって、阪神タイガースの話題と誤解なさったかもしれない。でも、「またも負けたか8連敗」ではない。そうではなくて、「8連隊」である。「8連隊」は帝国陸軍歩兵第8連隊を指す。大阪市内に本営を置き、1874(明治7)年に創設された古い歴史をもつ歩兵連隊だった。「またも負けたか8連隊」は1945年以前、「大阪の兵隊は弱い」という風説とともに広まった俗謡である。「弱い」というのは明治期からの陸軍上層部の評価であった。それが世間一般にも広まって俗謡となった。

 この俗謡をわたしは中学2年生のときに、「兵隊たちの陸軍史」という本で読んで知った。著者は直木賞作家の伊藤桂一氏。とはいえ小説ではない。ノンフィクションであり、まさに陸軍史である。もっとも、権力者の目線で俯瞰的に書かれた歴史ではなく、兵隊たちのいる地べたに視点をおいて軍隊の日常を描いた、すこぶる面白い本だった。

 

〈弱いという印象の原因は合理主義的な行動傾向〉

 実際には、第8連隊はとくに負けが多かったわけではなかったらしい。弱かったとも思えない。というのも、昔も今も、大阪の青年たちの体格や体力が全国的に劣るわけではなく、身体能力からいえば、その青年たちの集団がとくに弱かったとは思えないからである。

 上層部から「弱い」と評価された原因は、大阪人のもつ合理主義的な行動傾向にあったといわれる。たとえば、前述の伊藤桂一氏は、別のところで、「大阪の兵隊は大阪人らしく、確実に負けるとわかっているときは無理をせず、勝てる見込みがでてきたら反撃する」「何がなんでも戦って玉砕する、と言う考えはないかもしれません。やむなく玉砕することはあったにしても」と述べている。要するに、どんな命令にも死力を尽くして戦うなどということを、大阪人はしないのである。

 

〈ノモンハンでは戦闘が終わってから戦場に着いた〉

 第8連隊の「無理なことをしない」精神は、ノモンハン事件でも発揮された。ノモンハン事件とは、1939(昭和14)年、当時の「満州国」とモンゴル人民共和国との間の国境線をめぐって発生した武力衝突である。武力衝突とはいえ、実態は日本兵が一方的に虐殺された凄惨な悲劇であった。ソ連軍の最新鋭の戦車、重砲、戦闘機に対して、日本側は銃剣と肉弾の白兵攻撃で対抗した。出動した日本の兵隊の3分の1が死傷した。仙台の第23師団にいたっては約2万人のうち7割が死傷した。関東軍司令部が根拠なく甘い見通しで、兵隊たちに無謀な戦闘を無理強いした結果だった。精神主義だけで兵隊の生命を使い捨てるやり方はのちの特攻攻撃に通じるものがある。もしもノモンハン敗戦の実相が当時から国民に知らされ教訓化されていれば、太平洋戦争には至らなかったに違いない。ノモンハンへの出動命令は理不尽な命令だった。この命令が第8連隊にも出た。命令が出た直後から第8連隊には急病人が激増した。仙台の部隊が4日で進んだ道のりを1週間かけてゆっくり進んだ。行軍中も落伍者が続出した。ノモンハンの戦場に到着したときは、すでに日ソ停戦協定が成立したあとだった。戦闘に間に合わなかったのだ。大阪の兵隊たちの心のどこかに、「アホらし。行きとうない」という気持ちがあったはずだ。

 

〈えらい迷惑なこっちゃ〉

 司馬遼太郎も大阪の兵隊について述べたことがある。江戸時代の大阪人の精神のあり方から説き起こしている。大阪はもともと商人の町だから幕府の威光や大名の権力も恐れなかった。そういう環境に育った若者が、明治期以降、軍隊に徴集され、「天皇陛下のために命がけで戦え」と言われても理解できるはずがない。その理屈が実感としてのみ込めない。大阪人には、「えらい迷惑なこっちゃ」という意識が染みつき、その不合理につまづかざるを得ない。だから、戦争に弱いのは当たり前だ、と司馬遼太郎は言うのである。

 

〈教育勅語の対局にある精神のあり方〉

 このような精神のありようは、戦前の教育勅語の対局に位置している。教育勅語は、戦後の1948年に国会で「根本理念が主権在君ならびに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、かつ国際信義に対して疑点を残すもととなる」として、排除・失効確認が決議されている。

 教育勅語の文章のなかでも、とくに問題なのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」というくだりである。戦前の文部省が作成した尋常小学校修身の解説書には、「もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、君国のために尽くさなければなりません。このようにして天地と共に窮りない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等臣民の務めであります」と解説されている。

 司馬遼太郎が「大阪人には理解できなかった」と述べたものの本態は、教育勅語のこのくだりである。第8連隊の兵隊たちも、もちろん教育勅語を暗唱することができたはずだ。表面上は、他県出身者と同様に心服する姿勢をみせたに違いない。しかし、教育勅語のこのくだりを実感として呑み込むことはできなかった。「なんで天皇陛下のために死なんとあかんのや。不合理や」と思い続けた。これが人間集団としての第8連隊の精神であった。

 

〈日本国憲法の平和主義に通底しこれを支える精神〉

 主権在君と神話的国体観の否定とともにわが国の戦後民主主義は始まった。そして、主権在民と平和主義と基本的人権尊重に貫かれた日本国憲法が生まれた。教育勅語は主権在君・神話的国体観を広く国民に浸透させた戦前の軍国主義体制の精神的支柱であった。この教育勅語の対局に位置する「第8連隊の精神」には日本国憲法の平和主義と個人の尊重に通底するものがある。憲法前文の「崇高な理想」は、第8連隊のような合理主義的な個々人の行動によってこそ支えられる。

 第8連隊の精神は、言葉をかえれば、ナショナリズムに自分をささげることを拒否する精神である。熱狂的愛国主義に陥らない精神である。喜劇王チャールズ・チャップリンが、マッカーシズムに支配されたアメリカで多くの演劇人が「アカ」のレッテルを貼られた時期に、こう述べたことがある。「私は祖国を熱狂的に愛することができない。なぜなら、それはナチスのような国をつくることになるからだ。ナショナリズムの殉死者になるつもりはないし、大統領、首相、独裁者のために死ぬつもりはない」と。このチャップリンの考えは第8連隊の精神に相通じるものがある。

 ただし、第8連隊が実際にその精神を発揮したのはあまりにも遅きに失した。戦争が始まってから発揮されるのでは遅い。本来それは戦争が起きる前に、国家が戦争にいたらないように発揮されるべきものである。そのように適時に発揮されれば、間違いなく日本国憲法の平和主義に通底しこれを支える合理的精神となるはずだ。「またも負けたか8連隊」は、大阪人にとって屈辱的と一般に受け止められている。しかし、私は大阪出身者のひとりとして、郷土の誇りであると思っている。中学2年生のときから今までずっとそう思っている。(以上)