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大津事件と児島惟謙、そして司法権の独立【後編】 弁護士白井劍

大津事件と児島惟謙、そして司法権の独立【後編】 弁護士白井劍

〈ロシアとの密約〉

 このブログの最初のほうで、「大津事件の再評価」の、「世上一般に考えられているよりもはるかに複雑な事件である」という言葉を紹介した。事件を複雑にした要因のひとつはロシアと日本の密約の存在である。大津事件が起きるかなり以前に在日ロシア公使シェーヴィッチと外務大臣青木周蔵との間に交わされた密約である。仮にロシア皇太子が暴漢に襲われたらどうするかというシェ―ヴィッチの問いかけに、青木は「皇太子の身辺警護に万全を期すから大丈夫」と応じた。それでも「万が一にも起きたらどうするのか」との追及に、青木は、「日本の皇族に対するのと同様、刑法116条によって処刑する」と答えた。外務大臣はその内容を書面にしたためてロシア公使に対して手渡した。さらに、司法大臣(山田顕義)と総理大臣(山県有朋)も同意見であると念押しした。しかも、大津事件5日前の5月6日に山県内閣から政権を引き継いだ松方正義内閣は大津事件発生後にこの密約の存在を閣議で再確認し、履行する意思をシェ―ヴィッチ公使に通告した。しかし、政府はこれを公表しなかった。山県内閣では、まさかその約束を果たさねばならない場面が現実になるとは、だれも考えていなかった。事件が起きたのちの松方内閣も秘匿しつづけ秘密は守られた。大津事件が起きたのち当時の日本政府が刑法116条の適用にこだわったには、この密約の存在が大きい。教科書に書かれている、「ロシアとの関係悪化を苦慮したから」というだけではなかったのである。

〈児島惟謙の行動の問題点その1~はじめは津田を死刑にしようとした〉

 それでは、児島大審院長のどのような行動が問題だと、「大津事件の再評価」の著者田岡良一は言うのであろうか。いくつもの問題がある。その大要をひとつひとつ紹介したい。

 もっとも衝撃的なのは、児島惟謙が津田三蔵を死刑にしようとしたことである。児島惟謙は1891年5月6日(大津事件5日前)大阪控訴院長から転任して大審院長に就任した。5月13日(事件2日後)、児島は大審院で全判事を集め、刑法116条の適用に意見を求めた。適用できないという意見で一致した。もちろん児島も同意見であった。その後、児島は内閣総理大臣松方正義からロシアとの密約を打ち明けられた。このとき児島は日記に、「余は総理の言により事が甚だ複雑なるに一驚せり」と書いている。かれは刑法116条を適用することはできないけれども、津田は死刑に処さなければならないという考えをもつにいたった。そして、政府は緊急勅令をもって、津田の犯行を死刑とする法文をつくってこれを適用すべしと司法大臣に進言した。帝国憲法は、議会閉会中に必要が生じたときは、天皇の勅令をもって法律の制定等ができるとしていた。緊急勅令と呼ばれる。児島は津田を死刑に処するためにこれを使おうとした。当時、穂積陳重ら有力な学者たちがそのように主張していた。児島はこれに同調したのである。のちに「終始一貫して津田三蔵の死刑に反対した」と児島は世間から評価された。しかしこの評価は事実に反している、と田岡は言うのである。

〈児島惟謙の行動の問題点その2~裁判官の独立の侵害〉

 この事件は、大審院の判事たちによって裁かれることになった。その理由は刑法116条(大逆罪)の適用は大審院の特別権限に属するからというのである。すでに大審院の担当判事たちは政府からロシアとの密約のことを明かされていた。当初刑法116条の適用はできないとしていた判事たちは、密約の存在を知らされて考えを変えた。かれらは刑法116条を適用する意思を固めた。全員、夜行列車で東京から大津に向かった。児島は、担当判事ではなかった。しかし同じ列車に乗った。大津では担当判事たちと同じ宿に泊まった。刑法116条の適用をなんとしても阻止したかった。まず、裁判長を自分の部屋に呼び出し強引に説得した。君らの行動の出方をみて事情によっては、自分は潔く辞職すると脅かした。やがて裁判長は児島の考えに歩み寄る。すると児島は担当判事一人ひとりを自室に招き、自分の意見に賛成か反対かを問い詰め一人ひとりから約束を取り付けた。これらの執拗な干渉は「上司」であることを振りかざしておこなわれた。いまでいえばパワハラである。それが裁判官に対しておこなわれた。児島は明らかに「裁判官の独立」を侵害したのである。

〈児島惟謙の行動の問題点その3~担当判事の説得に天皇の権威を利用〉

 担当判事たちを説得する際、児島は天皇の「御言葉」を引き合いにだした。三権分立の体制の下で君主が裁判に容喙するのは禁止されている。帝国憲法下でも、これは動かせない道理である。ところが、児玉は判事たちを説得するために、天皇の権威を利用した。憲法57条も司法権の独立も、児島の頭から吹っ飛んだのである。もし「司法権の独立」を守るために児島が行動をおこしたとすれば、このようなことをするはずがないと田岡良一は指摘するのである。

〈児島惟謙の行動の問題点その4~大審院ができない判決を黙認した〉

 大津事件の法廷は、場所は大津地方裁判所で開かれたものの、審理は大審院がおこなった。大逆罪事案は、地裁や控訴院をすっ飛ばして、いきなり大審院の特別事件とされていた。大審院が審理するということは大逆罪を適用することを意味する。ところが、児島の執拗な干渉が「奏功」して、1891年5月27日に言い渡された判決は死刑ではなく無期徒刑であった。刑法116条は適用できないという判断である。そうであれば、もとに戻って、大審院には管轄はないとして、大津地裁に審理をやり直させるべきであった。これを児島は黙認した。この点も問題点のひとつとして「大津事件の再評価」はあげている。

〈児島惟謙の行動の問題点その5~国際法の観点からの問題〉

 国際法学者である田岡良一が「大津事件の再評価」でもっとも紙面を割き精力を注いだのは国際法上の問題である。

 田岡はまず、青木外務大臣とシェ―ヴィッチ公使との「密約」の拘束力の問題を論ずる。この点、「両国が批准し調印した条約ではないから国内法を何ら拘束するものではない」という論者がいる。田岡はこれに異を唱え、「批准」という「丁寧な手続を経ないでも、国家間の合意は成立し、両国がこれに拘束されるものと見なされる場合はしばしばある」と、国際法の専門家として反論する。

 つぎに田岡が検討したのは、仮に両国間で拘束力をもつとして、だからといって当然に国内的な規範として裁判に適用されるわけではないという問題である。国際協定がまだ国内法の形に変形する以前は裁判に適用される規範とはならない。これが原則である。しかし、この原則を杓子定規に貫くと国内法と国際法とが食い違う不都合な現象が多発する。そこで、「できる限り国際法学の理想に近づくように行動することを裁判官に求めることになる」と述べたうえで、田岡は国際法学の通説を紹介する。やや不正確になることを承知でその要旨をいえば、「国際法に規定がある問題について国内法に規定がない場合に、規定がないことが立法者の意思の表れであれば裁判官は国内法を優先すべきである。しかし、ただ単に立法者の迂闊や怠慢で規定がない場合は国際法に従った判断をすべきである」というのである。そのうえで、大津事件の場合は「立法者の不用意に起因する」とする文献を引用し、この場合は国家間の約束の拘束力が優先するので、刑法116条を適用すべきであったというのが田岡の主張である。

 このブログの冒頭で、「大津事件の再評価」をわたしは高く評価した。しかし、上述の部分には最初に読んだときから違和感をもった。罪刑法定主義はどうなるのかという違和感である。そもそも罪刑法定主義は個人の人権をまもるための制度である。田岡の主張に従うと、個人の人権よりも国家間の約束のほうが重いことになる。これは国家が本来あるべき姿と相容れない。その姿とは、すなわち国家はあくまでも国民ひとりひとり、すなわち個人のために存在するのであって、国家のために個人があるのではないということである。40年近く経ったいまも、わたしは同じ違和感をいだきつづけている。

〈児島惟謙の動機はなんであったのか〉

 さて、田岡良一があげた児島惟謙の行動の問題点を簡略に紹介してきた。それでは、田岡が「大津事件の再評価」において児島を批判の対象としてだけみているかといえば、けっしてそうではない。田岡は「常識」に対するアンチテーゼを唱えはしたが、けっして児島惟謙その人を悪く評価してはいない。

 じつは児島の行動を批判する人たちのなかには、「宇和島藩という弱小藩出身の児島惟謙が薩長藩閥政府に対する敵愾心という私情にもとづいて、薩長藩閥に一矢報いてその権威を失墜せしめようとした」という説がある。田岡はこの説をばっさりと切り捨てている。その理由は、要するに薩長藩閥政治に敵愾心を燃やし続けた人であれば大審院長になるほどの栄達を遂げるはずがない、ということである。そして、児島には長州藩に多くの知己があったことを事実として示している。

 それでは、児島惟謙の動機はいったい何であったのであろうか。そのことは、このブログで明かさないことにしたい。「大津事件の再評価」を手に取って、ご自身でご確認くださいと申し上げておこう。ただ、田岡良一が児島の行動を高く評価していることだけは申し上げてよいと思う。同書の最後に近いところで、田岡はこう述べている。「大津事件における児島の行動が、あれほど国民の心に大きい感激を呼び起こした理由の一つは、ここにあるかとも思われる」と。そして、最後を結ぶ一文はこうなっている。「彼がわが民族の独立と興隆のために是非護らなければならぬ重大な価値と考えているものが、政府の便宜主義によって押し流されようとしているのを見て、身を挺してこの価値を救おうとしたこと、これが、児島の政府に対する抗争の真因であると私は確信する」と。

 わたしがごく若いころに耽読した本である。常識がかならずしも正しいと限らないことは知っていた。でもそれを実感させてくれたのはこの本だった。読後は目に映る風景が変わった。脳天を一撃された気分だった。機会があればご一読いただくことをお勧めしたい。そう申しあげて擱筆する。【完】