開門確定判決
2010(平成22)年12月6日,福岡高裁は,諫早湾干拓潮受け堤防の排水門を3年以内に開放するよう,被告国に命じた。国は上告を断念し,判決は確定した。
漁業者は深刻な不漁に悩み,借金を苦にした自殺も後を絶たなかった。法廷で「裁判長!あと何人死ねば開門が認められるのですか!」と訴えた原告らは,再生に一筋の希望の光を見つけた。
当時,福岡の地で弁護士の道を歩みだしたばかりの私も,「よみがえれ!有明」弁護団に加って,一緒に“宝の海”の再生を見守るはずだった…。
目的を変えてまで止まらなかった干拓事業
長崎,佐賀,福岡,熊本4県に囲まれた有明海の西部に入り込んだ諫早湾に,初めて干拓構想が持ち上がったのは1952年のことである。「食糧確保」を目的に,諫早湾1万haをすべて農地にする計画だったが,漁業者の反発と「コメ余り」の現状と矛盾するとして立ち消えとなった。
諦めきれない国・長崎県は,1970年に再び「水と土地の確保」を訴えて開発計画を立てたが,これも漁業者らの猛反対で挫折した。
それでも干拓事業に固執する国・長崎県が,1983年に三たび打ち出したのが「防災」を目的とした諫早干拓事業であった。1952年の諫早大水害(犠牲者782人),1982年の長崎大水害(犠牲者299人)を背景として,「食糧確保」から「防災」に目的を変えて,“ためにする”公共事業がゴリ押しされた。
工事の受注業者らから地元の推進派議員らには多額の献金が渡り,関連企業には農水省からの天下りが常態化した。工事の受注契約は,官製談合により業者に極めて有利な取引が慣行化し,当初1350憶円とされた事業予算は,干拓面積が半減したにもかかわらず2460憶円に膨れ上がり,政・官・業の癒着と利権への寄生は明らかであった。
国は,湾内の漁業者らに対し,「シミュレーションの結果,着工当初は漁業に影響が出るかもしれないが,それも2割程度にとどまり,工事が完了すれば完全に元に戻る」などと説明し,「水害から住民の命を守るため」と強弁して,反対の声を抑圧した。
漁業被害の発生・拡大と開門を求める声
1989年に工事が着工されると,たちまち漁業被害が生じた。諫早湾内などで主力の漁であったタイラギ潜水漁が大打撃を受けた。タイラギ潜水漁は,潜水服を着た漁師が,海底に潜って高級二枚貝であるタイラギを採取するもので,かつては年収1千万円を超える漁師も多く,地域経済を支える柱となっていた。
1997年に「ギロチン」と呼ばれた堤防閉め切りが完了されると,アサリの大量死やノリの大凶作が立て続けに起こり,「有明海異変」と呼ばれた。
怒った漁業者らは,海上に船を連ねて「漁船デモ」を行うなど抗議したため,農水省も調査のために自ら「ノリ第三者委員会」を立ち上げた。同委員会は短期・中期・長期の開門調査を行って,有明海異変の原因究明が必要であると提言した。
しかし,農水省は自ら設置した委員会の提言を無視するかのように干拓工事を続行する姿勢を堅持した。
開門を求める法廷での闘いと開門確定判決
2002年11月,このような農水省のゴリ押しを止めるために,弁護団は,佐賀地裁に干拓工事の中止を求める仮処分を申し立てた。漁業者はもちろん,公共事業に反対し,環境を守ろうとする市民・研究者らの運動が広がった。
2004年8月26日,佐賀地裁は工事中止の仮処分決定が出され,ただちにすべての工事が中断された。既に計画の90%以上が完成していたが,もう一度立ち止まって公共事業を見直すことが示唆された。
しかし,翌年の福岡高裁で仮処分は取り消された。理由は,科学的な解明が不十分で因果関係が認定できないからということであった。ノリ第三者委員会が提言した「開門調査」を国自身が不当にサボタージュした結果,その国が救われるという明らかに不当な決定であった。
2008年に干拓工事が完成すると,裁判は「工事中止」から「堤防撤去または開門」請求に変更された。
この間も漁業被害は継続・拡大し,原告数は200人から1500人に膨れ上がった。
同年6月27日,佐賀地裁は「諫早干拓潮受堤防を3年待機の後、5年間にわたって開放せよ」との判決を出した。
国は控訴したが,冒頭で述べた通り,2010年12月,控訴棄却となり,開門を命じた判決が確定し,国は3年以内に排水門を開放する法的義務を負った。