神田界隈~山の上ホテルから錦華坂、そして夏目漱石 弁護士白井劍
東京あさひ法律事務所は東京都千代田区神田にある。1986年1月の事務所創立からずっと神田である。今回は神田のことを話題にしよう。
〈山の上ホテル〉
神田には全国的に知られたホテルがある。「山の上ホテル」である。その名のとおり神田駿河台の小高い丘の頂上にある。
ホテルの開業は1954年。創業70年である。建物はもっと古い。1937年に建築された。築後87年である。現在改築工事中である。建物の周囲に鉄板の囲いが張りめぐらされている。改装のために閉館するとき、そのことがNHKの夜7時の全国ニュースになった。そのくらい全国的に知られたホテルなのである。多くの著名な作家がこのホテルを愛し、ここにこもって執筆をした。
〈甲賀坂〉
想像してほしい。いま、あなたは山の上ホテルの前の道路にいる。ホテル正面にむかって立っている。そして、正面玄関の「山の上ホテル」、そして、てっぺんの「HILLTOP HOTEL」の掲示を見上げている。ふと背後を振り返ると長い坂を見下ろす位置にいる。下り一方のだらだら坂である。「甲賀坂」または「甲賀通り」と呼ばれる。この坂をずっと下っていく。明大通りを突っ切り、東京YWCA会館の前を行きすぎ、お茶の水仲通りも、本郷通りも突っ切って、道なりに下りつづけると淡路町交差点のそばに出る。これがうちの事務所に行く最短コースである。もっとも本郷通りに行き当たって、駿河台3丁目交差点を右に折れて小川町交差点に下って行ってもほぼ同じである。
〈公開空地〉
山の上ホテルの南の空を見上げると、明治大学のリバティタワーがそびえ立っている。タワーとホテルのあいだの空間は「公開空地」と呼ばれる。明治大学の敷地である。入口に「暁の鐘を撞きつづけて」と書かれた明治大学の石碑がある。公開空地は、多数の樹木が木陰をつくる細長い道になっている。その先に大きな藤棚がある。短いけれども快適な散歩道である。強い日差しが照り付ける真夏にはまさに都会のオアシスと思える。朝、ひと気の少ない時間帯は最高である。
〈不思議なサボテン〉
山の上ホテルの前に立って今度は北に目を向ける。北側は下り坂だ。降りていく。
その坂の途中にサボテンがある。真っ黒なサボテンである。しかも全体の均整がとれて、きれいな形をしている。いつ見ても、形のよい真っ黒なサボテンである。温室ならともかく、神田の路上にサボテンが一年中あるのも珍しい。「不思議なサボテン」とわたしは長いあいだ思ってきた。
この坂を下りきると「錦華坂」と出会う。
〈錦華坂(きんかざか)〉
先ほどの坂を下りきって明治大学10号館の前で「錦華坂」にはいる。右手に折れて「錦華坂」を上ると山の上ホテルよりも高い丘の頂上にでる。「錦華坂」の果てに東京都医師会館があり、近くには明治大学博物館がある。拷問器具が展示されていることで有名な博物館である。
〈錦華小学校(きんかしょうがっこう)〉
明大10号館を左に折れて「錦華坂」を下ると「猿楽坂」との分岐点に出る。「錦華坂」と「猿楽坂」に挟まれた三角形が「錦華公園」である。「錦華坂」も「錦華公園」も、その名はかつての「錦華小学校」に由来する。千代田区が建てた説明の立て札が坂の途中に建っている。「1924年(大正13年)、政府の区画整理委員会の議決によって造られました。坂の下にあるお茶の水小学校の当時の名称『錦華小学校』にちなんで名付けられました」と書かれている。
「錦華小学校」の設立は1873(明治6)年である。千代田区のホームページに説明がある。「神田錦町(かんだにしきちょう)にあった錦坊学校(きんぼうがっこう)の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。その後、錦華学校(きんかがっこう)と名前を変更し(以下略)」と書かれている。
〈吾輩は猫である〉
錦華小学校のあった場所は、いまは千代田区立お茶の水小学校になっている。1993(平成5)年に錦華小学校、西神田小学校、小川小学校の3校が統合されてつくられた。わたしは錦華小学校と呼ばれた時代を知っている。そこに「吾輩は猫である」の石碑があった。いまその石碑はお茶の水小学校裏門の脇に建っている。
「吾輩は猫である 名前はまだ無い 明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」と書かれている。
漱石は第1期生だったそうだ。明治11年は漱石が錦華小学校を卒業した年であろう。成績抜群で、「飛び級」をしたといわれるから、本来よりも1年早く卒業したのだろう。
〈幼くして養子にだされた漱石〉
先ほどの錦華坂の立札の説明にはつづきがある。「錦華小学校は1973年(明治6年)に発足した第4中学区2番小学をルーツとし、塩原金之助(夏目漱石)や漫画家の北沢楽天が卒業したことでも知られています」とある。漱石の本名はたしか夏目金之助だったはずだ。なぜ「塩原金之助」と書かれているのか。疑問に思って調べてみた。
漱石は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)江戸の牛込馬場下(現:東京都新宿区喜久井町)で、名主の夏目直克・千枝夫妻の末子(5男)として生まれた。本名は「夏目金之助」である。母親の千枝は高齢での出産を「面目ない」とくり返し言っていた。それだけが理由でもなかろうが、漱石は生まれてまもなく養子に出された。養父母は「古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦」であったらしい。随筆「硝子戸の中」のなかに、「私はその道具屋の我楽多と一所に、小さい笊に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に晒されていたのである。それを或晩私の姉が何かの序でに其所を通り掛った時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐に入れて宅へ連れてきた」というくだりがある。そうして生家に戻ったものの、2~3歳のころに塩原昌之助の養子となった。ところが、養父母である塩原夫妻が離婚したため、金之助は8~9歳のときに夏目家に戻った。しかし、夏目直克と塩原昌之助の対立のため正式な復籍手続が遅れ、金之助は塩原姓のまま21歳まで過ごした。こういう事情で錦華小学校には「塩原金之助」として在籍していたわけである。
〈養父母を実父母と思い実父母を祖父母と思って育った漱石〉
漱石は、随筆「硝子戸の中」で、実の両親を祖父母と思い込んでいたと書いている。養父母を実父母と思い、実父母を祖父母と思って育ったのである。もしかすると、「養父母を実父母と思った」のではなく、「思わされた」のかもしれない。というのも、漱石の自伝的小説「道草」に、つぎのくだりがあるからである。
然し夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。/彼等が長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。/「御前の御父ッさんは誰だい」/健三は島田の方を向いて彼を指さした。/「じゃ御前の御母さんは」/健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。/これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。/「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」/健三は厭々ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。然しそれが何故だか彼等を喜ばした。彼等は顔を見合わせて笑った。
「健三」は漱石自身、「島田」は養父、「御常」は養母である。実際に、このようにして養父母を実父母と思い込まされたのであろう。「硝子戸の中」では、「馬鹿な私は、本当の両親を爺婆とのみ思い込んで、どの位の月日を空に暮らしたものだろう。それを訊かれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった」と書かれている。実父母と祖父母と思い込んでいることを不憫に思った「下女」が夜中に内緒で教えてくれた。かれは、そのとき、内心「大変嬉しかった」と言う。「下女が私に親切だったからの嬉しさであった」と述べ、「不思議にも私はそれ程嬉しく思った下女の名前も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである」と結んでいる。
〈吾輩は子猫である〉
「吾輩は猫である」の石碑から小学校の正門のほうに回ると、「錦華の百年 昭和四十七年五月」と書かれた石碑が建っている。その石碑の前に可愛いネコがいた。NTTのハンドホールのフタに子猫が書かれているのである。
ハンドホールとは、電信柱の代わりに地中に電線や通信線を通すための「点検口」のことだそうだ。そういえば、千代田区には電信柱のない場所が多い。しかし、錦華坂近辺には電信柱も電線もふつうにある。じゃあ、このハンドホールは何なのか。神田の不思議のひとつである。ハンドホールのフタの可愛いネコの脇に、「吾輩は子猫である」と書かれている。NTTもしゃれたことをすると思ってよく見ると、デザインをしたのは、「共立女子大学建築・デザイン学部建築・デザイン学科デザインコース」だそうだ。
〈「不思議なサボテン」の真相〉
「不思議なサボテン」のことを先ほどのべた。
長い間ほんとうの生きたサボテンと私が思い込んでいたものは、じつは山の上ホテルが設置した金属製の案内板であった。ホテルにいったときに、この案内板を見たことはあった。でも遠くから見たときのサボテンと結び付けて考えたことがなかった。迂闊なことである。近づいてみると、なぜこんなものを生きたサボテンと思い込んでいたのかと思う。「思い込み」というものはおそろしいものである。
神田は、歴史を感じさせる「ちょっといいもの」にあふれた街である。これからも、折をみて、ご紹介していきたいと思う。(以上)