「奇跡が起きた」と父親は涙した~「障害児の逸失利益」高裁判決 弁護士白井劍
〈障害児の逸失利益は健常児と同等〉
「人間ひとりの生命の価値」をどう評価すべきか。この重い問いかけに真摯に向き合った判決が2025年1月20日、大阪高等裁判所(徳岡由美子裁判長)で言い渡された。交通事故の「逸失利益」の算定に関し、障害児と健常児との格差の是非が問われた訴訟であった。裁判所は、「あえて全労働者平均賃金を増額又は減額して用いることが許容されるのは、損害の公平な分担の理念に照らして、全労働者平均賃金を基礎収入として認めることにつき顕著な妨げとなる事由が存在する場合に限られる」としたうえで、当該事案において「全労働者平均賃金から軽減する理由はない」と判断した。障害児の逸失利益は原則として健常児と同等であると認めたのである。
〈イッシツリエキとは〉
「逸失利益」は「イッシツリエキ」と読む。他人の違法な行為のために得られなくなった利益をいう。賠償請求訴訟で使われる法律用語である。交通事故の人身被害の場合には、事故がなければ得られたであろう将来収入を指す。就労している成年のケースでは事故前の収入をもとに算定される。未成年のケースでは被害女児に障害がなければ全労働者平均賃金が用いられる。しかし、被害者が障害児の場合、これまでの裁判例は健常児とのあいだに差異を設けてきた。
〈歩道にショベルカーが突っ込んできた〉
事故は2018年2月に起きた。大阪府立生野聴覚支援学校前での悲劇だった。1名が死亡、4名が負傷。死亡したのは、その学校に通う11歳の少女だった。帰宅途上に信号待ちをしていた。その歩道にショベルカーが突っ込んできた(刑事訴訟の判決は、事故原因をショベルカー運転者のてんかん発作による意識喪失と認定した。自動車運転処罰法違反等で懲役7年が確定している)。民事訴訟の1審・大阪地裁判決は、聴力障害者であったことを理由に、全労働者平均賃金の「85%」を逸失利益算定の基礎とした。高裁判決はこれを変更したものである。
〈1審判決と高裁判決の違いはなにか〉
1審・大阪地裁判決については、当法律事務所ホームページに2023年3月22日掲載した弁護士ブログ「障害者の生命の価値は85%か?」で論じた。少女は先天性の「両側感音難聴」であった。「聴覚」は末梢系の「聴力」と中枢系の「聴能」からなる。感音難聴は末梢系の、音の情報を伝達する生理学的な機能の障害である。ささやき声での会話の音声は聞こえにくいが、通常の会話音声の大きさは聞こえており、補聴器を使うことで通常の会話音声を知覚できていた。手話や文字なども使って、情報を中枢系まで届ける教育を両親や支援学校から受けていた。他方で中枢系の能力を発達させ、年齢相応の日本語の語彙や文法といった知識を獲得し、小学5年生として複雑で高度な日本語文法を運用でき、学力も同年齢の児童全体の平均的な成績のレベルだった。そのうえ、対人関心、学習意欲が高く、他者に積極的に関わる能力があった。その能力を使い、いろいろな人とコミュニケーションをとり、関わることができていた。地裁判決は、少女が懸命に努力してきた経過を認定し、健常者に比しても「遜色はない」能力であったことを認めた。それでも地裁判決は、「聴覚障害が労働能力を制限しうる事実であること自体は否定できない」と判示した。この訴訟の地裁判決を含む従前の裁判例には、障害があること自体をもって「劣る」と決めつける思考が根底にあると思われる。この思考を冒頭の高裁判決は否定して、健常者と同等の逸失利益を算定した。
〈「障害者」とは~判断を分けたもの〉
それでは、地裁と高裁の判断の違いは何によって生まれたのだろうか。その判断を分けたものは「障害者をどのように理解するか」であったと思われる。
障害者基本法第2条1号によれば、「障害者」とは、「障害および社会的障壁により継続的に日常生活または社会生活に相当な制限を受ける状態にある」者である。同条2号によれば、「社会的障壁」とは、「障害がある者にとって日常生活または社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの」である。この法律で示されているのは、障害者が労働その他の社会生活、日常生活において受ける制約には、「障害」それ自体もさることながら、それとは別に「社会的障壁」が原因となっている制約があるという「障害観」である。この「障害観」を前提に、障害者雇用促進法は国および地方公共団体に必要な施策を求め、障害者差別解消法は行政機関および事業者に社会的障壁の除去を義務付けている。もし理念よりも現実を優先すべきとして「社会的障壁」の残存する現実の就労環境を前提に障害者の労働実態を根拠として逸失利益を算定するならば、裁判所が「違法」状態を是認する判断をおこなうことになる。「全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」という障害者基本法第1条の趣旨に反する判断になる。
大阪高裁判決は、就労環境を固定的に視るのではなく、少女が成長した将来像について、「近時急速に進んだ障害者法制の整備及びその法の精神・理念の社会への浸透と、デジタル化を中核とする技術の目覚ましい進歩が相俟って、聴覚障害者をめぐる社会情勢や社会意識も著しく変化し、聴覚障害に関する理解不足、聴力に関する補助的手段に関する知識不足や未整備の状態といった、聴覚障害者の就労にとって社会的障壁となり得る障害も、ささやかな合理的配慮をすることにより、聴覚障害者を含む職場全体で取り除くことができるようになってきており、それが当たり前のようになっている職場も少なくないと評価することができる」と述べ、「合理的配慮は法的義務であり、現に様々な職場で重度の聴覚障害を有する労働者と対話して、補助的手段の使用を認め、協力するなどの過重な負担でない合理的配慮が提供されることによって、重度の聴覚障害者であってもコミュニケーションに支障はなく、健聴者と同じ職場で同じ条件で働くことができている事実を直視するならば、未だ一部の職場で障害特性の理解不足や対話の不足等が原因で合理的配慮がされていない現実があるとしても、そのような事実を前提として、健聴者と比べて(当事者の)労働能力に制限があると評価することは相当でない」と判示した。
〈父親は「奇跡が起きた」と涙した〉
大阪高裁判決後の記者会見の様子がテレビに流れた。少女の父親は、「奇跡が起きた」と涙した。2018年の事故で少女が亡くなって以来の道程を振り返り、さまざまな思いが胸に去来したと思われる。その涙をみながら3つのことをわたしは思った。
1つは、司法の場において、この大阪高裁判決の考え方が拡がっていくことを期待したいと思った。そして、「障害があれば当然に労働能力が劣る」という偏見を克服し、「社会的障壁」を克服し、障害者が「等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」社会をめざそうとする動きがいっそう拡がっていくことを期待したいと思った。
2つめに思ったことは、交通事故などの不法行為訴訟での逸失利益の算定における男女格差のことである。わたしが弁護士になった40年前と違って、いまでは健常者の女児の逸失利益の算定に、女子の平均賃金ではなく、全労働者平均賃金を用いる司法判断が当然になっている。それでも、男児の場合は男子の平均賃金を用いる判決もあるから、格差が完全に解消されているとはいえない。まだ完全に解消されるまで先は長いと溜息をつく思いがした。
3つめに思ったことは、人間を「働く機械」とみて損害を算定する現在の裁判実務に対する違和感である。収入の格差がそのまま損害算定に反映される。本来は「人間ひとりの生命の価値」は平等であるべきはずなのに、である。人から聞いた受け売りだが、フランスやスウェーデンでは、この問題を解決するために、精神的苦痛に対する補償(慰謝料)を充実させているそうである。ひとの生命の価値を「生産性」を尺度にしてはかることは、優生思想(※)に通ずる気がしてならない。その尺度が妥当であるとは、どうにも思えないのである。
※ 優生思想:生産性の高さや障害の有無などによって人間を「優れた人間」と「劣った人間」に区別し、「劣った人間」は社会から排除してもよい、という思想
(以上)