「公正らしさ」を投げ捨てた最高裁 弁護士白井劍
〈渇しても盗泉の水を飲まず〉
「渇しても盗泉の水を飲まず」という故事成語がある。孔子に関する故事である。あるとき「盗泉」という泉のそばを通りかかった。とても喉が渇いていたけれど我慢して通り過ぎた。「盗」というけしからん名前の水は飲めないと考えたからだ。じつは、この話は論語には登場しない。弟子の曽子の話だとする説もある。それでも孔子の故事として言い伝えられてきた。孔子の死から約750年後、三国時代の呉の武将・陸機は、この故事にちなんで、「渇しても盗泉の水を飲まず、暑くとも悪木の陰にやすまず」とうたった。こんにちでは、どんなに困っても悪いことはしないばかりでなく、そのように疑われることはしないという意味の故事成語として使われている。
「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず、瓜田(かでん)にクツをいれず」ということわざも同様の意味をもつ。スモモの木の下では頭に手をやるな。冠をなおすためであっても、おいしそうなスモモの実に手を伸ばしていると疑われる。ウリ畑では、かがんではならぬ。靴を履きなおすためであってもウリ泥棒と疑われる。信頼を失うような疑わしい行為はするな、ということわざである。
〈裁判にとっても重要な「公正らしさ」〉
これらの故事成語やことわざは「公正らしさ」の重要性を説く。ひとの判断や行動は公正でなければならない。しかし、人びとから信頼されるためには、公正であるばかりでなく、「公正らしさ」をも大事にせねばならない。
このことは、「裁判」という制度にも妥当する。個々の裁判の判断が公正でなければならないのは当然である。そればかりでなく、裁判官の身の処し方や行動にも「公正らしさ」が求められる。裁判官の「公正らしさ」が損なわれれば、その判断の公正さに重大な疑義の赤信号が灯る。
〈福島原発事故の国の責任を否定した6・17最高裁判決〉
最高裁第2小法廷は、2022年6月17日、福島原発事故に関し、「国に責任はない」との判決を言い渡した。6・17最高裁判決と呼ばれる。この判決は、「(たとえ国が)規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く」「本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にある」とした。そのように言う理由として、東京電力の事前の「試算」は原発敷地の「南東側」だけが敷地高さを超えると予測していたのに、実際には東側からも大量の海水が敷地に浸入したのだから、仮に「試算」にもとづき防潮堤を設置していたとしても、大量の海水の浸入を防ぐことはできなかったからだと述べた。国が東電に防潮堤設置を義務付けていたとしても、南東側だけが高い防潮堤になってしまうから、東からの浸水を防げなかったと最高裁は言うのである。
なんともおかしな理くつである。そもそも相手は自然現象である。どの方角からどの高さの津波が来るかなど、正確に予測できるはずもない。だから、防潮堤を築くとき、南東側だけを特に高くして、東側は低くしたりするはずはない。そんな防潮堤など見たことも聞いたこともない。どの方位も同じ高さで敷地を囲むはずなのである。6・17最高裁判決は、「国の責任を認めない」という結論ありきの公正を欠いた判断というほかない。
〈最高裁の多数意見裁判官に湧きあがる疑念〉
国の責任を否定したこの最高裁判決は4名の裁判官によって言い渡された。菅野博之判事(裁判長)、草野耕一判事、岡本和美判事、三浦守判事の4名である。三浦判事だけは「国に責任がある」とする反対意見を書いた。菅野、草野、岡本の3人の多数意見が最高裁判決となった。この最高裁判決は、判断が公正を欠いているだけではなく、多数意見を書いた菅野、草野、岡本の3人に「公正らしさ」が欠けているという重大な問題がある。一昨年から今年にかけて、この重大な問題に関し、ジャーナリスト、学者、元裁判官などから、批判の声が湧き上がっている(たとえば、後藤秀典著「東京電力の変節――最高裁・司法エリートとの癒着と原発被災者攻撃」(旬報社)、樋口英明著「原発と司法」(岩波ブックレット)など)。
草野判事は、最高裁判事になる2019年まで15年間、ある巨大法律事務所の「代表経営者」を務めた。この事務所は、国内外の800人以上の弁護士を抱える日本最大級の法律事務所であり、東京電力・国と浅からぬ関係がある。たとえば、千葉勝美元最高裁判事が、2009年から2016年まで最高裁判事を務めたのち、草野氏が代表経営者を務めていた前記事務所の顧間に就き、その後、福島原発事故が審理された最高裁に東電の利益を擁護する意見書を執筆している(紙面の関係で詳述は避けるが、福島原発に関し、東電の予見可能性・結果回避可能性を事実上否定する内容であり、間接的に国の責任についても否定的な意見となる)。また、この事務所の共同経営者のひとりは、原発を強力に推進してきた、経産省の資源エネルギー関連の審議会の常連であった。
裁判長を務めた菅野判事は、2022年6月の最高裁判決の翌7月に定年退職し、翌8月に、500名を超える弁護士をかかえる巨大法律事務所に「顧問」として就職した。この事務所には東電株主代表訴訟で東電側の代理人を務める弁護士が所属している。定年退職後の就職先について、定年の前月の原発の判決までなんの話もなく、判決後にバタバタと急きょ決まったとは考えにくい。判決時点で、内々に話が進んでいたとしても不思議ではない。岡本判事も、弁護士資格をとつて最初に勤めたのが、これと同じ事務所だった。
〈最高裁は「公正らしさ」を投げ捨てた〉
本来ならば、このような場合、当該事件に関与することを「回避」するなり、当該法律事務所に就職することを避けるなりして、「公正らしさ」を損なわない配慮をすべきが筋である。たとえば、菅野判事の定年後の就職先として前述の事務所の話が判決前にすでに出ていたとすれば、判決に関わることを回避すべきであった。もしかすると、ご本人は、判決時点ではまだ就職の話しが出ていなかった、やましいことはしていないと弁解するかもしれない。それならば、別の就職先を選択すべきであった。また、草野判事が代表を務めた巨大法律事務所は、千葉氏の意見書にみられるとおり東電の利益を擁護してきた事務所である。千葉意見書が、6・17最高裁判決の核心部分に影響を与えた可能性を指摘する法学者の論考も出されている(『立命館法学』2013年4号・斎藤浩・元立命館大学大学院教授)。草野判事は、判決までに「回避」し、事件の担当からはずれるべきであった。ご本人は、そのことで判断を歪めたりしていないと弁解するかもしれないが、国民から疑念をもたれることは避けられない。「公正らしさ」が失われるのである。
ことは司法に対する国民の信頼にかかわる問題である。「渇しても盗泉の水を飲まず」「李下に冠を正さず、瓜田にクツをいれず」である。けっして「どう思われようとかまわない」と開き直ってよい事柄ではない。最高裁は、「公正らしさ」を投げ捨てた。そう批判されてもしかたがないと思う。(以上)