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チハルさん~ある薬害スモン被害者との出会い 弁護士白井劍

〈薬は怖いんや〉

 わたしは子どもの頃お腹が弱かった。ときおり整腸剤をのんだ。あるとき用量をかなり超えて服用した。そのことに気づいた母からこっぴどく叱られた。「薬は怖いんや。紙一重のところで毒になるんや」と母は言った。わたしを産む前は助産婦だった母は、薬のことにうるさかった。

 医薬品は、治療に必要な主作用と有害な副作用との両側面をもつ。避けられたはずの重大な健康被害が、有害情報の無視・軽視の結果、生ずることがある。「薬害」である。薬害研究の第一人者であった片平(かたひら)洌彦(きよひこ)先生(故人)は、薬害を「医薬品の有害性に関する情報を、加害者側が(故意にせよ過失にせよ)軽視・無視した結果、社会的に引き起こされる人災的な健康被害」と定義した。

 

〈薬害スモン事件〉

 耐えがたい腹痛やひどい下痢につづいて足先がしびれ、やがて下半身が麻痺する。腰から下の絶えることのないしびれ。カミソリが体内を走り巡るような激痛。脱力感。冷感。さらには言語障害や視力障害を起こす。失明にいたるケースも珍しくない。そういう「奇病」が1950年代から60年代に多発した。1969(昭和44)年7月24日付朝日新聞記事が、埼玉県戸田市から蕨市にかけて続発していると報じたことから「戸田の奇病」と呼ばれた。実際には局地的な疾患ではなく、全国各地で発生していた。「大人の小児麻痺」とも呼ばれた。症例は1955年ころから発生し、1959年ころから年を追って急増し、1967年ないし1969年にピークに達した。

 のちに「亜急性脊髄・視神経・末梢神経障害」という学名がついた。英語名の「subacute myelo-optico-neuropathy」の頭文字をとってSMON(スモン)と呼ばれるようになる。整腸剤「キノホルム」が原因の薬害である。

 

〈ウィルス説が生んだ悲劇〉

ところが、当初はウィルスが原因であるという説が流布された。京都大学ウィルス研究所の井上幸重助教授を始め、多数の医学者がウィルス説を唱えた。感染をおそれた人びとに偏見が拡がった。患者たちは社会的に疎外され、自殺する患者が続出する悲劇が生まれた。

 

〈各地訴訟の勝利判決と全面解決〉

キノホルムが原因であることが判明し、製薬企業と国の責任を追及する薬害スモン訴訟が全国各地でたたかわれた。1978年3月の金沢地裁を皮切りに、同年8月東京地裁、同年11月福岡地裁、1979年2月広島地裁、同年5月札幌地裁、同年5月京都地裁、同年7月静岡地裁、同月大阪地裁、同年8月前橋地裁と、相次いで9つの地裁判決が製薬企業と国の責任を断罪した。連弾の勝利判決を背景に全面解決をめざす大きな運動が全国的に展開された。1979年9月7日臨時国会で薬事二法が成立をみた。同年9月15日未明、スモンの会全国連絡協議会(ス全協)傘下の各地スモンの会および弁護団と国および加害企業(日本チバガイギー、武田薬品工業、田辺製薬)とのあいだで、加害の法的責任を認め、謝罪、薬害防止、賠償一時金、恒久補償(健康管理手当等)、遺族弔慰金、投薬証明のない患者の救済などを定めた確認書が調印され、全面解決を迎えた。

 

お前が迎えに行ったらええやないか

 スモン被害者と弁護団が全面解決闘争をたたかっていたころ、わたしは世間知らずの大学生だった。1978年に大学にはいった。スモンのことは何も知らなかった。ただ裁判官にあこがれて勉強しているだけの法学部生だった。留年を経て1982年10月司法試験に合格した。それから司法修習生になるまでの数カ月は、長いトンネルを抜けて久しぶりに陽光を浴びたような日々である。

司法試験合格者が薬害スモン被害者から話を聞く会合があると友人から聞いたのは1983年2月のまだ寒い時期だった。そのときも薬害に関心はなかった。ひょんな偶然からその会合の準備会の場に居合わせた。スモン患者に東京に来てもらって、40名ほどの合格者の前で話をしてもらう相談をしていた。患者さんは下肢が不自由で、全身に激痛がはしると誰かが言った。たまたまその場にいただけの部外者であったにもかかわらず、わたしは「そういう人に来てもらうなんて、とんでもない。こっちから行くべきや」と声を上げた。呆れ顔がいっせいにわたしを見た。「今から新たな会場を確保するなどできないよ」と言う。それでもわたしは「2時間以上もかけて東京まで来てもらうなんて、ひどい話や」と言い続けた。「そんなに心配なら、お前が迎えにいったらええやないか」という人がいた。わたしはチハルさんを自宅まで迎えに行くことになった。

 

〈陽射しのまぶしい朝に〉

 当日の朝は、3月下旬のぽかぽかした陽気だった。陽射しがまぶしかった。わたしはチハルさんの自宅玄関の引き戸を引いた。すぐに声が聞こえてチハルさんが出てきた。鮮やかなピンク色の薄いカーデガンを羽織っていた。笑顔のチハルさんが満開の桜のなかで輝いているようにわたしには見えた。

 最寄り駅から各停に乗って途中で特急に乗り換えた。東京に向かう特急列車の二人席に並んで座った。彼女は近所の男の子に話すように飾り気のない口調で語った。それは凄惨で壮絶な話だった。それにもかかわらず、わたしは近所のきれいなお姉さんの他愛ないおしゃべりを聞くように聞いてしまった。

 

〈世界で一番可哀そうなチハル〉

 1966年20歳のときに発病した。当時は事務員として働いていた。夏、腸の具合が悪くなって、念のために近所の病院にいった。初診時からキノホルムを処方されて毎日服用した。1週間後、激しい腹痛と両下肢の重苦しいだるさに襲われた。同じ病院に入院し、1年8カ月にわたってキノホルムを投与され続けた。

スモンは急速に確実に進行していった。感覚が鈍り、冷感が増す。下肢の痛みと脱力感で物につかまらないと歩けない。波状に襲う激しい腹痛。下肢は萎えていった。次第に視力が衰え、よほど大きな文字でなければ読めなくなり、色彩も褪せていく。一歩踏み出すのに渾身の力を入れ、足元に障害物がないか、かすむ目を凝らす。さらには、頭痛と吐き気の連続、上半身の筋肉痛、息苦しくなる心臓障害というように症状が全身におよんでいく。

退院後は精神的な仮死状態で自宅に引きこもった。自分のからだの痛みや辛さのことしか頭になかった。「世界中で一番可哀そうなチハル」と自分を憐れんで過ごした。美しいもの、溌らつとした友人、自分以外のすべての人間を嫉妬し憎んだ。

 

〈鈴木ボンドと豊田ライオン〉

 チハルさんが語るすべてのことに、わたしは衝撃をうけた。地獄をくぐり抜けうちひしがれた彼女が裁判闘争に立ち上がったことには感銘をうけた。スモン東京弁護団のことを彼女は語った。鈴木堯博弁護士と豊田誠弁護士の名前がくり返し登場した。「スズキタカヒロセンセイはね、鈴木ボンドと呼ばれてるのよ。けっして諦めないの。一度喰いついたら絶対に離れない強力ボンド」。「トヨダマコトセンセイはライオンみたいなひと」。そのふたりのことを語るとき、彼女は楽しそうで誇らしげだった。

 初めてスモン東京弁護団に出会ったときの感動を彼女は「薬害スモン全史第1巻被害実態篇」(1981年6月発行)でこう述べている。

「金沢判決はまだ支援団体の数も少なく、それでも厚生省前に集まった沢山の人々、被害者や弁護士の緊迫した気配に、私は圧倒されていた。自分が何か大変な渦中に入りつつある――気持ちがキューとひきしまる。特に弁護士の覇気は物凄い衝撃で私をとらえた。鋭く激しい語調と機敏な動作――それは仕事に情熱を傾注する人間の美しさであった。私のしらなかった『社会』に全力で生きている人々が大勢いる――私は感動した。スモン罹患後初めて喜びで心がさざめいた」。

 チハルさんが語るスモン東京弁護団は魅力あふれる人間の集団だった。わたしは彼女の話に魅了された。でも、裁判官になる以外の将来像を想像もできなかったので、そのときのわたしには「ひとごと」でしかなかった。

 

〈東京駅に着いて〉

 特急列車が東京駅に着いた。チハルさんは、「私は独りで歩けるから。大丈夫だから。手助けはしないで」と、まだ座っているときからくり返し言った。だから、わたしは彼女が座席から立ち上がって列車から降りるときも、プラットホームを進んでいくときも、いっさい手を出さないで黙って見ていた。

 階段の手前に立って、彼女はすこし立ち止まった。躊躇しているように、わたしには見えた。思わず彼女の肩に手を添えて支えようとした。じつは彼女は躊躇したのではなく、力を振り絞ろうと気持ちを集中させていたのだった。即座に彼女はわたしの手を振り払った。彼女の鋭い声が飛んできた。「ほっといてください。自分で歩けるんです」と。まっすぐ前を見たまま言うと、彼女は一歩一歩ゆっくりと階段をのぼっていった。

 

〈つむじを曲げた〉

差し出した手を振り払われ、わたしは「けっ」と思った。つむじを曲げてしまった。そのまま、彼女もわたしも口をきくことなく講演会場となった古い旅館に向かった。会場に着いてすぐに彼女の講演が始まった。1時間くらいの話だった。

会場では40名あまりの司法修習生が食い入るようにチハルさんの小さな体を見つめ、聴いた。ふと気がつくと、だれもがボロボロと涙を流している。泣いていないのは、わたし独りだった。わたしだけが冷めていた。「この人たちはアホや。泣くことないやないか。重い病気で苦しんでいる人は世の中にぎょうさんおるやないか。チハルさんだけが可哀そうなわけやない。病人の話を聞くたびに同情して泣いてたら身がもたんよ。アホかいな」。そう思っていた。

かれらに涙させたものは、病人に対する同情心などではなかった。企業の利潤追求が被害を生むことに対する義憤、そして巨大な加害者に立ち向かう被害者の姿が感動を呼んだのである。

わたしも、特急のなかでチハルさんの話を聞きながら、これはお涙ちょうだいの物語とはまったく異質のものだと感じていた。ところが、講演会場では心を動かされなかった。脳がチハルさんに対する共感を拒絶していた。わたしはまだつむじを曲げていたのだった。

読者には、わたしの心理の動きが理解しがたいかもしれない。今となっては、わたしにも理解できない。でも、実際わたしはそんなふうだった。しょっちゅう「けっ」と思った。少年から青年に変わっていく移行期、つまり中学生のある時期からチハルさんと出会ったこの頃まで、わたしのつむじはずっと曲がりっぱなしだった。

 

〈帰り途で〉

帰りもわたしが送っていった。チハルさんは全精力を使い果たしていた。立っているのがやっとだった。それでも独力で歩こうとした。その力は残されていなかった。振り払われるのを覚悟のうえで彼女を支えた。わたしが肩に手を添えても彼女は嫌がらなかった。「おんぶしましょう」と言うと黙ってうなずいた。体じゅうの力が抜けてしまっていた。まるで人間のダシガラみたように見えた。わたしの背中で「ありがとう」と言った。とても小さなか細い声だった。顔色はまさに土気色だった。わたしの背中でぐったりしていた。このまま死んでしまうんやないか、とさえわたしには思えた。「ああ、この人はこんなにつらい思いに耐えてたんや。命をかけて東京まで来てくれはったんや。司法修習生に薬害スモンを伝えるために。そうして、命をすり減らしてしもたんや」。そう思った。

体の奥底から震えるような感動が湧き上がってくるのを感じた。自分も薬害スモン事件のような事件にかかわってみたい。そう切実に思った。もっとも、このときはまだ、裁判官としてそういう事件にかかわることができればと思っただけだった。

 

〈プラットホームで〉

自宅まで送っていくと申し出た。チハルさんは固辞した。特急列車の終着駅まで父が迎えに来てくれるから大丈夫と言った。プラットホームまで連れて行った。チハルさんの顔には血色がもどっていた。おろしてと言うので、おんぶからおろした。ホームには人があふれていた。チハルさんといっしょに特急列車を待った。隣に背の高い紳士が立っていた。背広の襟に弁護士バッジがついている。年季の入ったバッジだった。チハルさんもそのバッジを見た。「あ、弁護士さんや」とわたしが声をあげた。すると紳士は、おもむろにこちらに向き直り、「違います」と大きな声をあげた。「へっ」とチハルさんとわたしが怪訝な顔をすると、紳士は「弁護士ではなく、弁士です」とよく通る声をあげた。チハルさんは「面白い弁護士さん」と言った。そして、わたしと顔を見合わせて小さな笑い声をあげた。チハルさんが笑うのを見るのは、そのときが初めてだった。

その笑顔を見、笑い声を聞きながら、「弁護士になりたい」という思いが湧き上がってきた。学生時代、わたしは裁判官をかっこいいと思い、弁護士はかっこわるいと思っていた。だって、判断を下すのは裁判官なのだから。断然、裁判官がいいと思っていた。ところが、チハルさんの笑顔に出会って、自分の考えは間違いではないかと思い始めた。裁判官は、被害者のこういう屈託のない笑顔を見ることはないのではないか。きょう自分がうけた感動を知ることはないのではないか。そう思うと、とてもつまらないように思われた。その日の朝、列車のなかでチハルさんから聞かされたスモン東京弁護団は魅力あふれる人たちだった。断然いいと思い始めた。でも、そういう魅力あふれる弁護士に、自分がなれるという自信はもてなかった。いくつかのそういう思いが自分の胸のなかで堂々巡りになった。

 

〈後日談~被害は生涯つづくのよ〉

 わたしは2年間の司法修習を経て1985年4月に弁護士になった。有楽町にある法律事務所に就職した。その事務所には豊田誠弁護士も鈴木堯博弁護士もいた。チハルさんの話のとおり、ふたりとも魅力あふれる素晴らしい弁護士だった。1986年1月、そのふたりが有楽町から神田に移るというので、わたしも無理を言って連れてきてもらった。そのとき新たに設立された事務所が東京あさひ法律事務所である。

 チハルさんとの出会いから43年の歳月が流れた。当たり前のことだけど、チハルさんはずっとスモン被害者であった。訴訟が終わっても、全面解決にいたっても、被害には終わりはない。薬害スモンの凄惨な被害は加齢とともにますます重篤化していくのである。

じつは先日、チハルさんから電話をもらう機会があった。その電話でチハルさんは言った。「わたしももう80歳になるのよ」と。被害は年とともにますます深刻になると静かに語った。「被害に終わりはないの。ずっと生涯つづくのよ」と言った。けっして愚痴ではなかった。どんなにつらくても負けはしない、泣き言は言わない。そういう思いが伝わってくる言い方だった。43年前と同じ、しっかりとした若々しい声だった。

 

〈スモンになってよかった〉

 本稿を終えるにあたって、もう一度チハルさんが書いたものを引用したい。前出の「薬害スモン全史第1巻被害実態篇」に寄せたチハルさんの文章の一節である。

               記

もしスモンにならなかったら、私はどんな朝を迎えていたであろうか。ああかな、こうかな、と想像する。しかしこの「もし」は永久に「もし」のままであった。もし杖をつかずに歩けたら・・・・。もし目がよく見えたら・・・・。ここを起点とする発想こそまさしく、うたかたのごとく見果てぬ夢にすぎないのだ。オルグやデモ、集会の真っ只中にいるとき、急に襲われる不思議な感情―――「どうして私はここにいるのか?」。20歳の元気な私と、いまの自分とが同一である不思議さ、それとは裏腹に、十数年のスモンの苦痛と挫折した年月を飛び超え、あの当時ののびやかな20歳のチハルの存在をみてしまう不思議さ。

もしかしたら・・・・、あまたの得がたい経験や人間と出会うためにスモンになったのだろうか。大きな犠牲を払ったけれど、それに代わる貴重なものを私は掌中にしている。スモンにならなかった人生ではなく、スモンになってしまった人生を、スモンになってよかったとかげりなく私にいわしめた素晴らしい人間の群れ―――そうした人間群に、おのれの人生を自らの手できりひらく人間群に栄光あれ!私は今、心の底から歓びの歌をうたえる。(以上)