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逆転無罪 弁護士白井劍【第4回(連続5回)】

逆転無罪 弁護士白井劍【第4回(連続5回)】

 

【登場人物】

Kさん:被告人。グロリアの所有者。

A:Kさんの知り合いの暴力団幹部。Kさんからグロリアを借りた。

B:Kさんのもと内妻。その後、Aと婚姻。

Dさん:事件2日前にAがグロリアを運転するのを見た証人。

岡村実弁護士:弁護団の中心。

今村核弁護士:刑事専門の弁護士。助っ人として弁護団に入ってくれた。

 

〈目撃証言の信用性〉

有罪判決の根拠は3名の目撃証言である。これを崩さないかぎり原判決を覆すことはできない。犯行は深夜である。フロントガラス越しに犯人の顔を明瞭に見ることができたのかどうか、その点が争点であった。捜査側は、第1審で、犯行時と同時刻に街灯の下で照度測定をし、「新聞の文字が読める」と結論する実況見分調書を提出していた。

今村核弁護士の提唱で弁護団は犯行現場の再現実験をした。1998年秋、犯行と同じ時間帯の実験だった。実際に車両を用意し車内に遮光フィルムを貼って何ルクスになるのか照度測定をおこなった。弁護士が手分けしてさまざまなものを調達した。わたしは車の関係の仕事をしている友人に無理をいって自動車や遮光フィルムを準備してもらった。こういう実験は9名の弁護団だからできたことだ。ひとりの弁護士にできることではない。実験してみると、警察の実況見分調書とはまったく異なる数値が計測された。警察の数値は街灯の直下で742ルクスから416スクスだった。街灯の場所によって少しずつ数値が違うものの、かなりの高値だ。わたしたちの実験では桁違いの数値になった。新聞の文字などまったく見えはしなかった。やっぱり警察の実況見分調書はでたらめだったのだ。検証で同じように照度測定をおこなえば有罪判決の根拠は崩れ去る。これで裁判所を説得できる。逆転無罪だ。わたしはそう考えた。ところが、それを聞いた今村核弁護士が、「刑事裁判はそんなに甘くありませんよ。この事件だとAが真犯人だと弁護側が立証しないかぎり逆転無罪はないと思います」と言った。「疑わしきは被告人の利益にじゃないか」とわたしが言うと、かれは黙って首を横に振った。なんだか目の前が真っ暗になる気がした。それでも実験結果には自信を得た。裁判所に目撃者視認状況の検証を申請した。しかし、裁判所は消極的であった。ますます目の前が暗くなった。

 

〈Aの尋問〉

1998年6月にAが逮捕されていたことが、その年の秋にわかった。東京地裁八王子支部でAに対する覚せい剤取締法違反の刑事公判が進行していた。東京高裁のKさんの事件の法廷にAが連れてこられて、岡村弁護士が尋問をおこなった。Aは、1997年3月ころKさんからグロリアを借りたこと、当時、覚せい剤取締法違反で指名手配され、その車で娘たちといっしょに生活している状況だったことを証言した。そしてグロリアはその年の4月末か5月初め、ゴールデンウィークの前にKさんに返還したので、自分は事件とは無関係だと強弁した。岡村弁護士は懸命に食い下がった。5月5日にAがグロリアを運転しているのをDさんが見ている。車の返還はしていないはずだ。しかし、岡村弁護士の執拗な追及はAの弁解を固めるだけだった。ゴールデンウィーク前に返還した。それ以降は現在までグロリアに乗ったことはないしハンドルにもいっさい触れていない。その弁解をAはくり返した。弁解がガチガチに固まった。

古典的な教科書であるウェルマンの名著を始め、反対尋問の教科書とされる文献がいくつかある。それらは相手に説明の機会を与えることを戒めている。相手の弁解を固める尋問は避けるのが「定石」である。とはいえ、将棋や囲碁と同様、裁判も定石どおりだから勝てるとはかぎらない。ときには定石を破る必要がある。このときの岡村弁護士の尋問がまさにそうだった。そもそも反対尋問は、相手の弁解を「崩す」ほかに、相手の弁解を「確認」して当方の攻撃目標を確定するという目的もある。嘘を言う者は、あれこれと言を左右して逃げようとする。弁解を固めることは、その退路の選択肢を断つことを意味する。グロリアをAが運転するのを5月5日に見たというDさんの証言について原判決は、その後にKさんがAから返還をうけている可能性もあるから矛盾はしないと判示した。ゴールデンウィーク前に返還したというAの弁解が固まれば、DさんとAの証言の矛盾は明瞭になる。そもそもハンドルから検出された指紋はKさんではなくAの指紋である。ゴールデンウィーク前に返還してその後はハンドルに触れていないというAの弁解が固まれば、指紋をめぐる不合理が際だつ。

今村弁護士の言葉で目の前が真っ暗になったとはいえ、岡村弁護士のAに対する尋問を横で聞きながらわたしは、「まだまだ勝機はある」と思い直していた。結果から振り返れば、このときの尋問は逆転無罪を手繰り寄せる主要な二本の太い綱の一本となった。もちろん、この時点ではだれもまだ、そのことを知らない。

 

〈目撃証言の視認状況に関する2度目の予備実験〉

目撃証言の視認状況については、その後もう一度予備実験をおこなった。今村核弁護士が主導した。すでに弁護団は、のちに述べる決定的証拠を得ていた。1999年5月1日、資料解析研究所の高山昌光所長に参加してもらい犯行現場で予備実験がおこなわれた。前回よりもずっと本格的な実験になった。本件と同じ型のグロリアを用意した。遮光フィルムを貼っていない状況ではフロントガラス越しに運転席の人物を識別することは可能だった。でも、フロントガラス以外の窓ガラスに遮光フィルムが貼られていると識別は不可能だった。高山所長に写真を撮影してもらい、照度測定をしてもらった。予備実験の照度測定結果と警察の実況見分とでは100倍の違いがでた。警察の数値は、車内のハンドル付近で437ルクスとなっていた。予備実験ではわずかに4.2ルクスだった。

予備実験の結果を報告書にまとめて裁判所に提出した。裁判所は、高山昌光所長の尋問をおこなったうえで、この報告書を証拠採用した(刑事訴訟法321条3項準用)。結局、最後まで検証は実施されなかった。それでも、目撃証人の視認状況が劣悪であったことは明らかになった。

 

〈グロリア内の大量の遺留品〉

犯行時にグロリアを利用していたのはだれか。Kさんなのか、それともAなのか。それが主要争点の事件である。それにもかかわらず、放置されたグロリアが発見された際の車内にどのような遺留品があったのかは記録に見当たらなかった。警察に問い合わせたところ遺留品はまだ車内にあるとのことであった。1999年4月のことだ。すでに警察が捜査したあとの残り物である。そこに意味のある証拠が残っている可能性は低いとだれもが思った。それでも可能性があるかぎり確認するのが刑事弁護の鉄則だと今村核弁護士が主張した。浅草署に確認に行くことになった。山本孝弁護士が率先して自分が行くと言った。わたしもついていくことにした。伊藤方一弁護士を誘って3人で浅草署に行った。行ってみると遺留品は段ボール箱に入れられてトランクに積まれていた。

 

〈遺留品が物語るもの〉

遺留品はAに関係する物ばかりだった。Kさんの物はひとつもなかった。Aの戸籍謄本、Aの国民健康保険証、A名義の銀行預金通帳、Aが使用していた携帯電話とPHS、Aの組関係の電話番号帳、A宛ての手紙、Aの娘の写真は、いずれも一見しただけでAの所有物であることが明瞭だった。胆石の薬もあった。Aの持病だった。Kさんの病歴にはない。これらの遺留品は持ち主にとって必要な品々のはずだ。必要な品々を残したまま車を返還するはずはない。ゴールデンウィーク前に車を返還したというAの弁解と、これらの大量の遺留品とは整合しない。Aが犯行後に車を乗り捨てて慌てて逃げ去ったと考えたほうが自然である。車内から持ち出す余裕がなかったのだ。そのことを遺留品は物語っていた。

そして、多数の領収書もあった。いずれもガソリンスタンドで給油したときの領収書だった。支払は現金ではなくカードでなされている。領収書に符合するカード利用明細も多数あった。カードはAの娘の名義だった。それでも決定打ではなかった。多数のカード明細の日付はいずれも4月のものだった。連休にはいってからの日付はひとつもなかった。遺留品はいずれも情況証拠にすぎない。ゴールデンウィーク前に車を返還したというAの弁解を崩すことのできる、パンチの効いた証拠は何もなかった。

 

〈車内に重要証拠があった〉

遺留品確認に浅草署にいったこの日は1999年4月初旬だった。春の日差しは力強く、昼間はとても暖かかった。でも、夕刻に向かって、風がすこし肌寒く感じられた。段ボール箱のなかの100点をこえる遺留品を3人でひとつひとつ確認し、あれこれと検討して意見交換するという作業のくり返しに夢中になっていたので、気づかぬうちに4時間あまりが経過していた。

車内を点検することにした。後部座席ドア内側のポケットにゴミが突っ込まれていた。そのゴミのなかの、コンビニのおにぎりの包装紙に山本弁護士が目を付けた。1997年5月6日の日付だった。事件前日だ。賞味可能な時間帯が印刷されていた。販売された地域を特定できれば、AとKさんがその時間帯にどこにいたのかによっては重要な証拠になりうる。希望が見えてきた。すこしホッとした。午後いっぱいを費やして作業した甲斐があった。でも、これでは弱い。おにぎりなど、だれでも買うものだ。Aとの結びつきを直接に示す証拠ではない。たしかに重要証拠だけど、逆転無罪につながる証拠にはならない。弁護団会議の席でだれかが言った、「警察が調べたあとなんだからろくな証拠は残ってないかも」という発言が脳裏をよぎった。なんだか、ひどく疲れた気がした。

(以上、第4回。次回は2日後21日に掲載予定)

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逆転無罪 弁護士白井劍【最終回(連続5回)】