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逆転無罪 弁護士白井劍【最終回(連続5回)】

逆転無罪 弁護士白井劍【最終回(連続5回)】

 

【登場人物】

Kさん:被告人。グロリアの所有者。

A:Kさんの知り合いの暴力団幹部。Kさんからグロリアを借りた。

B:Kさんのもと内妻。その後Aと婚姻。

Kさんの事件の弁護団:岡村実弁護士、今村核弁護士、山本孝弁護士、石川順子弁護士、菅野兼吉弁護士、伊藤方一弁護士、見附泰範弁護士、野島真人弁護士、わたし(白井劍)

 

〈「まあ、ちょっと待て」〉

前の座席に移動した。山本孝弁護士は運転席に、わたしは助手席に座った。

山本孝弁護士はわたしがもっとも大好きな先輩である。わたしは1985年に弁護士になってからずっと、うちの事務所をつくった豊田誠弁護士と鈴木堯博弁護士のふたりの後ろ姿を追いかけてきた。東京あさひ法律事務所を立ち上げるときに、旬報法律事務所から移ってきたのも、このふたりがつくる事務所だからだ。でも、追いかけてもとうてい追いつけはしない。いつもはるかかなたの遠くの後ろ姿がどんどん小さくなる。事務所は異なっても、山本孝弁護士のほうが身近な存在だった。いつも懇切丁寧に指導してくれた。山本弁護士もわたしも水俣病東京弁護団の事務局として訴訟実務のこまごまとしたことを引き受けていた。おのずから、しょっちゅう顔をあわせて、いっしょに作業する機会が多かった。鹿児島や熊本にふたりで出張したこともたびたびあった。だから山本弁護士の仕事ぶりをわたしはよく知っている。およそ手を抜くということをしない。いつも丁寧で緻密な仕事をする。山本弁護士から教えてもらったことはとても大きい。山本弁護士にはいくつかの口癖がある。そのひとつは、「まあ、ちょっと待て」だ。気が急いて動き出したくなるときに、ちょっと立ち止まって落ち着いて考えることの大切さを、この人からわたしは学んだ。

運転席と助手席に座ってふたりが話題にしたことは、運転しているときに手にしたものをどこに仕舞うか、であった。助手席の前のグローブボックス、運転席と助手席の頭上の日よけの裏側、運転席と助手席との間のカップホルダーやドア内側のポケット。およそ物を入れられそうなところは全部見た。でも、何もなかった。警察が全部調べて、遺留品はすべて段ボール箱に詰めた、だから何も残っていない、これ以上、探しても無駄だ。そう思われた。わたしは帰り支度を始めた。そのとき山本弁護士が鮮やかに言った。「まあ、ちょっと待て」と。かれは、しばらく黙ったまま、じっと考えていた。やがて、身体をかがめて、助手席や運転席の座席の下や、ドアとの間の隙間など、あらゆる隙間を綿密に調べ始めた。山本弁護士が姿勢をもとに戻したときには、手に白い紙片が握られていた。高速道路通行料金の領収書だった。日付は1997年5月7日。犯行当日である。通行料金はカードで支払われていた。カード会社はガソリン給油支払いのカード利用明細と同じだった。わたしは茫然としてその紙片を見つめた。「ああ、勝った。これで勝てる」。無意識のうちにわたしは、つぶやいていた。カード会社に問い合わせて調査しなければならないにしても、状況からして、Aが本件犯行の当日に娘のカードで高速道路の通行料金を支払ったことは間違いないと思えた。犯行当日にグロリアを運転していたのはAである。ゴールデンウィーク前に車を返したという弁解は崩れ去る。犯行とAとの結びつきを直接に示す、決定的な動かぬ証拠だった。

その日、浅草署をでたあと、何か美味しいものを食べたいとわたしは言った。山本弁護士、伊藤弁護士とともに浅草今半本店ですき焼きを食べた。

 

〈対質〉

その後、調査したところ、包みが発見されたおにぎりは、1997年5月6日15時から翌7日9時までの間に茨城県と埼玉県三郷地区で販売されたことがわかった。その時間帯、Kさんは五反田にずっといて、そのおにぎりを購入できないことを立証した。

そして、決定的な証拠となった高速道路通行料金の領収書は、岡村弁護士がカード会社に照会をかけた。予想どおり、カードの名義人はAの娘だった。ゴールデンウィーク前に車を返還したというAの弁解は確実な物証によって粉砕された。

それらの一連の証拠を裁判所に提出した。ただちにAに対する、2度目となる尋問が実施された。岡村弁護士のAに対する尋問は豊富な材料をつかってかなりのポイントを挙げた。岡村弁護士の尋問がおわった直後、裁判長は硬い表情で、「対質をする」と言った。「対質」は「たいしつ」と読む。刑事訴訟規則第124条に根拠をもつ尋問形態である。裁判長はAとKさんのふたりを自分の前に並んで立たせた。そして、同一の質問をそれぞれに浴びせ、それぞれに答えさせた。その時点ですでに裁判所は心証を形成していたはずである。答えを聴きながら裁判所は、自分たちの心証に間違いがないか、ひとつひとつ確認している。わたしにはそう見えた。

 

〈判決〉

判決は1999年8月17日に言い渡された。逆転無罪の判決だった。「原判決を破棄する。被告人は無罪」。裁判長の声が法廷に響いた。

言い渡しの終わった直後、弁護団は互いに肩をたたき合い握手していた。岡村弁護士が振り返ってこちらを見た。目が合った。かれは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。当番弁護士として初めてKさんに会った1997年5月20日からの2年3か月の長い道のりとその間の苦労を思い出したのだろう。

わたしはといえば、この結果は氷山の一角に過ぎないという思いにとらわれていた。苦労して苦労して、しかも僥倖にもめぐまれて、ようやくかちとった逆転無罪である。ずさんな思い込み捜査のために冤罪が生まれ、しかし僥倖に恵まれず、正されないで見過ごされている事件は多いだろうと思った。すこし重苦しい気持ちになった。もちろん、逆転無罪判決には、心の底から安堵し、喜んでいた。

 

〈後日談〉

さて、後日談である。Kさんの事件の高裁裁判長と親しくお話しする機会に、わたしは恵まれた。高裁判決から12年がたっていた。すでに裁判官を定年退官して弁護士になっておられた。2011年4月から1年間、わたしは東京弁護士会副会長を務めさせていただいた。副会長としての職務として出席した、刑事関係の委員会の懇親会の席で隣り合わせたのだった。元裁判長はKさんの事件のことをよく覚えておられた。長い裁判官人生のなかでもとくに強く印象に残る事件だったとおっしゃった。ロースクールで教鞭をとっておられた。その授業で、「刑事弁護のお手本として、若い人たちにこの事件のことを紹介している」とおっしゃった。もちろん、社交辞令の意味合いも多分に含まれていただろうけど、それでもとても嬉しかった。

 

〈最後にもう一度今村核弁護士のこと〉

Kさんの事件の法廷活動は、そのほとんどを岡村実弁護士が担った。尋問はすべて岡村弁護士がおこなった。裁判所に提出した書面もひとつの例外を除いてすべて岡村弁護士が作成した。例外は控訴趣意書だった。これはわたしが精魂込めて書いた。無罪判決につながる直接の物証を見つけたのは山本孝弁護士だった。高裁の公判廷の出席率でいえば、岡村実弁護士と山本孝弁護士のふたりだけが皆勤だった。そのつぎが石川順子弁護士とわたしで1回だけ欠席(それ以外はすべて出席)。その4名をのぞく残り5名のメンバーはみな3回以上の欠席だった。

しかし、それでも、弁護活動全般を今村核弁護士が主導したことは間違いない。すくなくとも、かれがいなければこの結果はなかった。今村核弁護士はどんな弁護士かと訊かれれば、「非凡」とわたしは答えるだろう。この事件でもかれが提唱しておこなったことは多い。とりわけ、わたしたちを驚かせたのは、犯行現場の再現実験であった。この事件では2度それがおこなわれた。ふだんからさまざまな冤罪事件で同様の再現実験をしているのだろうと推測された。徹底して科学的に思考し組み立てた大規模な再現実験、それによって警察のずさんな捜査に基づく偽りの証拠構造を根底から崩していく。その手法は「非凡」というほかない。かれの訃報に接して、この国の刑事司法が大きな希望を失ったとこの連載の冒頭に書いたのはそういうわけである。こころからご冥福を祈る。

(「完」。5回連続の連載の終わり)