障害者の生命の価値は85%か?~ 大阪地裁判決の報道をみて 弁護士白井劍
〈忘れられない写真〉
障害者の差別をめぐる報道に接すると思い出す写真がある。ホロコースト記念博物館でみた写真である。1998年のことだ。薬害ヤコブ病の調査でワシントンに飛んだ。着いてから、他の人たちと合流するまで時間があった。その空き時間に訪ねたのがホロコースト記念博物館だった。軽い気持ちで訪ねたのに重い衝撃を受けた。ホロコーストの犠牲者を後世に伝える博物館である。展示の凄まじさに度肝を抜かれた。犠牲者のほとんどはもちろんユダヤ人である。しかし、その前に身体障害者、知的障害者、精神障害者が犠牲になった前史がある。約7万人の障害者が、労働能力の劣る「社会の役に立たない命」として、シャワー室に似せて作られたガス室で殺された。犠牲者の元気なときの写真が強烈な印象をわたしに与えた。
〈2023年2月27日大阪地裁判決〉
イッシツリエキという言葉をお聞きになったことがあるだろうか。逸失利益と書く。損害賠償の裁判で使われる用語だ。事故がなければ得られたであろう将来収入のことである。被害者の事故前の収入をもとに算定される。被害者が子どもであれば全労働者平均賃金による。その子が健常者の場合は当然にそうなる。それでは障害がある場合はどうであろうか。
障害をもつ子どもの逸失利益をどのように考えるべきか。健常者と同等か、それとも減額されるべきか。このことを争点とする判決が、2023年2月27日大阪地方裁判所(武田瑞佳裁判長)で言い渡された。判決は、聴覚障害をもつ、事故当時11歳の少女の逸失利益を健常者の85%と判断した。これまでの裁判例よりかなり高い水準だ。しかし健常者と同等と認めた裁判例もある。判決文は入手できていない。報道内容を前提に考えたい。
〈歩道で信号待ちする少女が犠牲になった交通事故〉
ショベルカーが歩道に突っ込んできた。歩道では11歳の少女が信号待ちをしていた。少女は死亡した。大阪市生野区の聴覚支援学校から帰宅する途上の事故だった。2018年のことである。少女のご両親が運転者とその雇用主を被告として提起した訴訟の判決が、先ほど述べた大阪地裁判決である。ご両親は健常者と同等レベルの請求をした。被告らは当初、障害者の逸失利益は健常者の4割と主張した。のちに聴覚障害者の平均賃金を基礎に算定すべきと主張を変えた。それでも、健常者の6~7割でしかない。
〈少女の懸命な努力と「健常者と遜色ない」という判示〉
少女は生後1カ月で感音性難聴と診断された。医師から「言葉を話すことは難しい」と言われた。しかし、努力を重ねて乗り越えてきた。将来就職して自立できるよう専門的訓練を受けるために自宅から離れた聴覚支援学校に通った。事故の少し前には、学校の運動会で大勢の人前で堂々と話すことができるようになっていた。裁判所は、「慣れた環境においては問題なくコミュニケーションがとれた」と認定し、「学年相応の教科書で学び、評定も平均的で学習に特に支障はなかった」、健常者に比しても「遜色はない」と認めた。そして、少女には「勉学や他者とのかかわりに関する意欲と、両親による支援が十分にあり、将来さまざまな就労可能性があった」と認定した。報道が伝える裁判所のこれらの判示を見ても、少女が生まれてからずっと健常者の何十倍もの努力を重ねたことがうかがわれる。
さらに、判決は、聴覚障害者の大学進学率が上がっていること、音声認識アプリなどのツールが開発されていることなどを認定したうえ、少女が就労したであろう時期には障害による影響はより小さいものになっていくであろうと述べた。しかし、それでも判決は、「聴覚障害が労働能力を制限しうる事実であること自体は否定できない」として、逸失利益は全労働者平均賃金の85%と算定した。
〈聴覚・視覚障害をもつ多くの弁護士が代理人に〉
聴覚障害や視覚障害をもつ弁護士が全国各地にいる。その弁護士たちがこの裁判のことを伝え聞いて名乗りをあげ原告訴訟代理人になった。かれらは、司法試験に合格し弁護士となった。健常者の何十倍もの努力を重ねたはずだ。そして健常者と対等に法廷活動をしている。いうなれば、「聴覚障害それ自体が労働能力を制限しうる事実ではないこと」を、身をもって示す生き証人である。原告弁護団のひとりで自身も重度の障害を抱える弁護士(久保陽奈弁護士)のコメントが新聞に載っていた。彼女は、「(差し引かれた)15%の根拠がわからない」と憤った。まさにそのとおりである。
〈この裁判が投げかけた本件事件特有の問題〉
この裁判が投げかけた問題は2つある。
1つは、本件事件特有の問題である。障害者全体のことはいったん措くとしても、本件の少女に関するかぎり、健常者と同等の逸失利益を算定すべきだったのではないかという問題である。裁判所は、少女がその努力の積み重ねの結果、健常者に比肩するレベルに達していたことを認めた。それにもかかわらず「健常者の85%」しか認めなかった。努力を尽くしても健常者と同等になれないものが残ると裁判所が決めつけたに等しい。たしかに不確実な将来の可能性の問題である。しかし、だからこそ、本件の少女のようなケースは健常者と同等に扱うべきと考えられる。
〈この裁判が投げかけたもう一つの問題〉
もう1つは「人の生命の価値」をどう考えるべきかという問題である。さらに裁判実務のあり方が正しいのかという問題に行き着く。人間を「働く機械」と見立てる逸失利益の算定に、わたしは弁護士になりたてのころ違和感をおぼえた。しかし、この違和感に拘泥すると、およそ生命と健康をめぐる損害賠償の裁判を担当することが不可能になってしまう。だから、ふだんは押さえつけている。でも、38年たった現在でも、やはり違和感は変わらない。この違和感の正体は「収入の格差が生命の価値の格差に結びつく」という矛盾である。生命の重みに変わりはないはずなのにと思うのである。
〈人の生命の価値〉
冒頭の判決をめぐるNHK番組で、ある弁護士がこう述べていた。「被害者に価値をつけるのではない。年収はその人の命の価値ではない。あくまで損害の填補ということだ」と。たしかに、生きていれば得られたはずの収入は損害である。しかし、それは人の死というものを財産的価値の喪失として捉えた場合の損害である。いわば物損とパラレルに考えるこの考え方は絶対的なのであろうか。人の死の本質はむしろ、その人格的価値の喪失ではないのだろうか。物損と同列に考えることで、大切な何かがさらさらと指のあいだからこぼれ落ちはすまいか。立命館大学名誉教授の吉村良一先生は、同じNHKの番組で、「人を『収入を稼ぎ出す機械』と見る見方がどうしても伴う。収入の高い人はたくさん賠償がもらえる、収入の低い人はそうではない。これが果たして許容できるのか、というのが根本問題。人の価値が平等という時に、それでいいのか?」とコメントした。
たしかに、健常者だけを念頭におくかぎり、「収入の格差が生命の価値の格差に結びつく」という矛盾は目立たない。資本主義社会に収入の格差はつきものといわれれば黙らざるをえない。しかし、冒頭の少女のような事件では、この矛盾が亀裂を開けて立ち現れる。この矛盾を抜本的に解消しようと思えば、逸失利益が損害の基本となる裁判実務を転換させるほかない。もっとも、個別の裁判では無理がある。そうではなく、制度論として、弁護士会や障害者団体などがとりあげて社会にアピールすべき問題である。大枠の方向性としては2つが柱になる。1つは、生命、健康が損なわれた事案の慰謝料を思い切って高額に引き上げることである。もう1つは、逸失利益を損害項目からはずす(あるいは思い切って圧縮する)ことである。
いつも思うことだが、この世はさまざまな矛盾に充ちている。その矛盾とひとつひとつ折り合いをつけながら人は懸命に生きている。でも、折り合いをつけてはならない矛盾もある。障害者の逸失利益の問題は折り合いをつけてはならない矛盾である。というのも、労働能力を理由に死亡による損害が小さいとする考え方は、労働能力が劣る「社会の役に立たない命」だと称して障害者たちを虐殺したナチスの思想(および当時のドイツ社会の空気)に通底するものがあると思うからである。ワシントンでみたかれらの写真を思い出すのである。
以上