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諍いの海~諫早湾干拓事業がもたらしたもの~(後編) 弁護士 國嶋洋伸

開門義務を負った国

2010年12月,福岡高裁は,被告国に対し「3年以内に,諫早湾干拓潮受け堤防の排水門を5年間にわたって開放せよ」との判決を言い渡した。

菅直人首相(当時)は,漁業被害の甚大さを考慮して上告を断念し,開門判決は確定した。国は3年間の猶予期間内に「準備工事」をした上で,開門する義務を負った。

「準備工事」は,堤防内の調整池塩水化の対策のためのもので,農業用水の確保や,浸み込み塩害防止のための堤防補強などであった。

3年間の猶予が与えられたのは,国が訴訟で「準備工事に3年はかかる」と主張したためで、当然ながら国は直ちに準備工事にかからなければならないはずだった。

国のなりふり構わぬ抵抗

しかし,国は一向に工事に着手しようとはしなかった。理由は「現地住民らの反対運動で工事にかかれない」という信じ難いものであった。

確かに,住民らの反対を力ずくで押さえつけることは不適切だ。しかし,同じ時期に,国は辺野古の新基地建設に反対する住民らに対し,全国から機動隊を終結させてまで力ずくで排除していた。

これに対し,諫早では,国はわざわざ反対住民らに事前に工事の日時や場所を連絡し,反対住民のために国有地の一部を開放するなどして,積極的に反対運動を「奨励」していた。

さらに開門に反対する住民らが国を相手に起こした開門差し止め仮処分では,被告国は開門の必要性(=漁業被害の発生)などの本来なすべき主張をあえて行わず、負けるべくして裁判に負けた。

一審の敗訴判決に対しても、国は控訴権を放棄して,開門差し止め決定を確定させた。

そのようななりふり構わぬ司法無視・悪用をした挙句,国は「開門判決と開門差し止め判決の板挟みにあって動けない」などとして,とうとう3年の準備期間を徒過した。

 

国が強制執行を受けるという前代未聞の事態

目に余る国の判決不履行に憤った漁業者らは,国に対し間接強制の申立て(判決を履行するまで制裁金を払わせる強制執行手続き)を行い,最高裁は1日当たり1人1万円(後に2万円に増額)の制裁金の支払いを命じたが,それでも国は判決に従わず,制裁金が支払われ続けた。

2017年4月,未だ開門義務を負っている国は,「開門はせずに100億円の基金を創設することで和解を目指す」という農水大臣談話を発表し,判決に従わないことを公言した。三権分立の下,確定した司法権の判断に,行政権が反旗を翻すという法治国家にあるまじき前代未聞の異常事態であった。

そのような行政の強気の姿勢に屈服するかのように,2023年3月28日,最高裁は,漁業者らが国に強制執行を求めることが権利濫用にあたり違法であるとの国の主張を認める不当決定を言渡した。

漁村の崩壊と干拓営農者の苦境

国が開門の確定判決を守らず,その暴挙を司法が追認する間にも,諫早湾をはじめとした有明海奥部などの漁場環境は年々被害が深刻化していった。

漁業をあきらめて町を去る者,子や孫には継がせられないと自分限りで終わりにする者が後を絶たず,漁協の組合員も減り続け,漁業を中核産業としてきた地域自体の衰退が加速した。

一方,干拓地の営農者も,畑作に不向きな水はけの悪い土壌やカモ類の食害,淡水化したことによる冷害などによって,多くの入植者が多額の借金を抱えたまま撤退した。

「肥沃で広大な理想の農地」を生み,漁業にも悪影響は生じない,などとして,莫大な税金を投じて強行された国営諫早湾干拓事業は,農業者も,漁業者も幸せにすることなく,地域に深刻な対立をもたらした。

かつて「宝の海」と呼ばれた諫早湾は,いつしか「諍いの海」とまで呼ばれるようになった。

 

対立を「隠れ蓑」に悪用する国

もともと諫早湾沿岸は、農漁兼業の住民も多く、親族の中に農業者も漁業者もいることが普通で、相互に助け合って地域を支えてきた。漁業者も、農業者も、それぞれの生業が成り立たなくなってもよいなどと考える者はいない。

一部のメディアでは、あたかも農業と漁業の対立のように書かれている記事も目にするが明らかな誤りである。有明海沿岸には海岸沿いの畑はいくらでもあるし、昔から農漁共存で成り立ってきた土地である。

対立に見えるのは、それを煽って「漁夫の利」を得ようとする国の卑劣な戦術によるものである。自ら無駄な公共事業によって漁業被害、農業被害をもたらしながら、責任をとりたくない国は、対立の構図を隠れ蓑にして、巧みに悪用しているのである。

対話による解決を目指す地域住民の運動

行政も司法も紛争解決の姿勢を示そうとしない中、地域住民グループは、解決に向けた対話を進める運動を続けている。

対立の原因は、事業を推進するために国や長崎県が流したデマ宣伝に端を発している。大水害の恐怖を煽ったり、開門すると漁業にも甚大な被害が生じると言ったり、科学的な裏付けや根拠のない誤った情報で地域住民も正しい事実を知らされないまま対立が続いてきた。

農漁共存の再生の道があるという正しい知識や情報を伝えて、今後の有明海沿岸地域をどう再生していくのか、地域住民を一軒一軒訪ねて対話の重要性を訴えるという地道な活動が続けられている。

科学者・研究者らによる提言

同時に、海のメカニズムを探る自然科学者や、政治経済・自治問題を研究する科学者グループらによるシンポジウムも盛んに開かれている。

行政が都合よく数字操作をして被害が起きていないかのように偽装し、司法がそれに迎合して不当判決を重ねても、自然の摂理はそれに従わない。諫早湾と有明海の状況が年を追うごとに悪化していっているのは誰の目にも明らかである。

それを科学の力で合理的に実証し、原因と対策を探ろうとする試みが続けられている。

いかに政治や権力で抑え込もうとしても、真理を探る科学的な活動は、近い将来必ず真実にたどり着くはずである。

生業を守ろうとする人々の力を信じて

1991年の雲仙普賢岳の噴火で、有明海の漁業も少なからぬダメージを受けたが、数年後には回復した。その後、2011年の福島第一原発事故で漁ができなくなったというニュースを聞いた有明海の漁業者の言葉が忘れられない。

「自然が壊したものは、やがて自然の力で元に戻る。でも人間が壊したものは簡単には元に戻せない。」

有明海沿岸では、大昔から地先干拓という自然と共存する工法で農地を増やしつつ、干潟も保全しながら豊かな自然の恵みを享受してきた。

今少しずつだが、漁業を継承しようとUターンする若者も出始めているようだ。農業も特産品などの開発が奨励されている

国と長崎県が利権まみれの公共事業で壊し続けてきた自然とそれを基礎にした地域の生業や暮らしを取り戻すことは、自然に任せていては困難である。

科学的調査に基づく正しい情報を基礎に、自治体や住民が議論を重ねて、どのように海と地域を再生していくかを考えていくほかない。

いつか有明海産の鰻やタイラギが復活する日を楽しみに、弁護士である私も、訴訟による活動のみならず、こうした地道な活動を支援して有明海の再生の道を見届けたい。

弁護士 國嶋洋伸