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「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の父 弁護士白井劍

「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の父 弁護士白井劍

 

〈反戦の声を弾圧する社会〉

いま、わたしたちは現在進行形の戦争の悲惨な報道に日々接している。2月24日にロシア軍による軍事侵略が始まってから半年が経った。当初はロシア国内でも戦争に反対する声が湧き上がっていた。しかし、その後プーチン独裁体制のなかで、その声は徹底して弾圧され、抑え込まれてしまったように見える。わたしたちは胸を痛めるものの、自分とは関係のないよそ事のように思いがちである。

しかし、落ち着いて考えれば、けっしてよそ事ではない。77年前までの日本はいまのロシアとまったく同じ社会だった。国外では侵略戦争を強行し、国内では反戦の声を徹底して弾圧した。1931(昭和6)年日本は柳条湖事件(満州事変)を惹き起こして中国大陸侵略を開始。反対する人びとを徹底して弾圧した。弾圧されたひとりに植木徹誠(うえき てつじょう)という人がいる。クレージーキャッツの植木等(うえき ひとし)の父親である。

 

〈苦悩した植木等〉

クレージーキャッツといっても、若い世代はご存知ないかもしれない。1960年代に一世を風靡したコミックバンドである。そのボーカルを務めたのが植木等であった。代表的ヒット曲に「スーダラ節」がある。1961年にシングル盤レコードのB面を埋めるためにつくられた。ところがこれが爆発的な大ヒットになった。そのためA面とB面が入れ替わったといわれる。

「スーダラ節(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)

ちょいと一杯のつもりで飲んで/いつの間にやらハシゴ酒/気がつきゃホームのベンチでごろ寝/これじゃ身体にいいわきゃないよ/分かっちゃいるけどやめられねぇ/ あ、ほれ スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイー/スイーラスーダララッタ スラスラスイスイスイー/スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイー/スイスイスーダララッタ スーダララッタスイースイ」

1960年代前半ラジオでもテレビでも、しょっちゅうこの歌が流れた。子どもたちは面白がって大声で「スイスイスーダララッタ」と歌い、振り付けをまねた。わたしも幼い頃、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」と歌っていた。「からだに悪いんやったら、やめたらええやないか。なんでやめへんのや」と不可解に思いつつ、わけもわからず、声を張り上げて歌った。

スーダラ節や映画「無責任男」シリーズのせいで、不真面目でいい加減な人というイメージが植木等にはつきまとう。ところが、じつは生真面目で誠実な人柄であったらしい。スーダラ節を歌うことになったとき、こんな不真面目な歌は歌いたくないと嫌がり、歌がヒットすると、「こんな歌が流行して悲しい」と言い、自分が理想とする社会の姿とのギャップに思い悩んだと言われている。その悩みをかれは父親に相談したらしい。

 

〈植木等の背中を押した植木徹誠〉

植木等の父、植木徹誠は浄土真宗の僧侶であった。本名は植木徹之助。僧侶になる前、すこし変わった経歴をもつ。若い頃はクリスチャンであり、社会主義運動にも関わった。紆余曲折ののち、真宗大谷派の名古屋別院で学び、得度。1929(昭和4)年真宗大谷派の僧侶となり、徹誠と名乗った。人権感覚の豊かな人で、被差別部落に対する差別に反対して水平社の運動にも参加した。ちなみに、「植木等」は本名であり、「等」は徹誠の平等思想に由来する。父がつけたこの名を植木等は誇りに思い、ずっと本名で通したといわれる。

この父親が、思い悩む植木等の背中を押した。徹誠は、「スーダラ節の文句は真理を突いている。あの歌詞は親鸞の教えに通じる」と述べた。植木等が不思議がると、徹誠は、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」について、「人間の弱さを言い当てている」と説いたという。

 

〈侵略戦争に反対し続けた植木徹誠〉

植木徹誠は稀有な「反戦僧侶」のひとりであった。侵略に反対し、戦争に反対しつづけた。「日本は東洋平和のための戦争といっているが、帝国主義侵略であることは間違いない」などと言ってのけるので、特高警察から「危険人物」として睨まれていた。徹誠は、「本来、宗教家は戦争に反対すべきである」という固い信念をもっていた。

かれは、檀家の人に召集令状が来ると、その人に、「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだ。戦地ではなるべく弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとかいわれたって、絶対、死んじゃ駄目だぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年とったおやじやおふくろはどうなる。それから、なるべく相手も殺すな」と語ったと伝えられている。駅頭での出征兵士の壮行会でも、特高警察に見張られていることを承知のうえで、徹誠は同じことを言い続けた。当時は、お国のために命を捧げるのが当然とされていた。世の中の流れに抗して、国家よりもひとの生命を大事にする話をしつづけた。よほどの信念と勇気がなければできることではなかった。徹誠は1938(昭和13)年の1月18日に、治安維持法違反で逮捕され、約4年間投獄された(そのうち、未決は2年)。

 

〈平和を願う国民のひとりひとりができることを積み重ねて〉

当時は治安維持法が猛威をふるった。1925(大正14)年4月22日に公布された、全文7条の短い法律だった。第1条で、「国体を変革し又は私有財産を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入した者」を処罰の対象とした。当初の法定刑は「10年以下の懲役又は禁固」であった。3年後の1928(昭和3)年6月には最高刑が「死刑」に引き上げられた。敗戦までのあいだに警察などで虐殺された人は80名以上にのぼり、獄死者は1617名にのぼる。「蟹工船」で有名な小林多喜二も特高警察での残酷な拷問で虐殺された一人である。そして、数十万人のひとびとが逮捕され、7万5681名が送検された。そのなかのひとりに前述の植木徹誠がいた。

それは歴史の話でしょ。いまのわたしたちとは無関係でしょ。そのように考えることはできない。じつは、わたしたちが謳歌している自由と権利も、国民の不断の努力によって初めて保持されるものである。政府や政治権力に対する監視と批判を忘れてしまえば危うくなる、そういう性質のものである。そして、自由と権利の抑圧は、いつの時代でも、軍備の拡張とコインの裏表の関係にある。

いま、日本政府は、軍備の予算をGDP(国内総生産)比で現在の1%から2%以上に一挙に増額し軍備を抜本的に強化する方針を打ち出している。防衛省の概算要求のなかには、「長距離ミサイル」の開発・導入のための巨額の費用が入るとみられている。これまでの専守防衛をおおきく転換させて、積極的に外国を攻撃する能力を自衛隊が備えようとしている。国のかたちがおおきく変わってしまうかもしれない曲がり角に、いまわたしたちは立っている。

植木徹誠は反戦の信念を貫くために投獄を覚悟せねばならなかった。幸いなことに、いまわたしたちは、投獄されることを覚悟しなくとも、戦争に反対し軍備拡張に反対することができる。そういう自由をわたしたちはもっている。平和を願う国民のひとりひとりができることを積み重ねることが大事だと思う。それと同時に、ウクライナ戦争を口実に日本の軍備を強化しようとする声に惑わされないようにしたいものだと思う。(以上)