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江戸の庶民はどうやって迷子を探したのか ~弁護士白井劍

〈よく晴れた日に日本橋川のたもとで〉

 ことし2月末のことである。よく晴れた日だった。日本橋の訪問先から職場まで歩いて帰った。もちろん銀座線のほうが早い。でもさほどの違いはない。どうかすると電車がなかなか来なかったりする。そうすると早足で歩いたほうが早い。

 一石橋(いっこくばし〈正式には、いちこくばし〉)橋詰に東京都教育委員会の立札が立っている。立札のなかの「迷子」の文字が目にとまった。眼下の川は日本橋川と呼ばれる。神田川から分かれる分流である。くだれば永代橋あたりで隅田川に合流する。日本橋川の上空には巨大な首都高が走る。その川に架かる多数の橋のひとつが一石橋である。立札の表題は「一石橋迷子しらせ石標(いっこくばし まいごしらせ せきひょう)」となっている。

 

〈迷子をさがす江戸末期の石標〉

 先ほどの立札の脇に人の背丈ほどの石標が立っている。立札によれば石標は「東京都指定有形文化財(歴史資料)」だそうだ。石標が建立されたのは幕末の1857年(安政4)年。行方不明の子の情報を求める告知板である。日本橋川の日本橋南詰から一石橋南詰にいたる地域は「西河岸町(にしがしちょう)」と呼ばれた。この地域は江戸期には大勢の人でにぎわっていた。人の往来が激しくなれば迷子が増える。迷子になったら親子が生き別れになることも珍しくなかったらしい。

 当時、迷子は町が面倒をみることになっていた。月行事(月交代の町政当番)が責任をもって保護した。親に引き渡すまで町で養育したらしい。迷子がでたら早急に親を見つけたい。もちろんそれは迷子本人や探す親の心からの願いである。それと同時に、経済的負担に苦慮していた町の有力者たちにとっても切実な要求だった。「一石橋迷子しらせ石標」が町の金持ちたちの拠出によって建立された背景にはそのような事情があった。

 石標の正面には「満よひ子の志るべ(迷い子の標)」と陰刻が施されている。かつては陰刻部分に朱の色が入れられていたそうだ。

 石標は花崗岩製の角柱である。髙さは161センチ。下の台石の高さ13センチを加えると174センチ。わたしの身長とほぼ同じである。

 

〈石標に貼り紙〉

 「満よひ子の志るべ」を真正面にみて、向かって左の側面には「たづぬる方(尋ぬるかた)」の陰刻が施されている。「たづぬる」の「た」の字のすぐ上の部分が縦長の長方形に彫られている。

 この長方形部分に行方不明の子を探す親が貼り紙をする。貼り紙には、迷子の名前や年頃、面体、迷子になったときに来ていた衣類などとともに家主の名前と町名が記されている。

 迷子の特徴を知らせ、てがかりとなる情報が提供されるのを待つわけである。

 

 「満よひ子の志るべ」の右側面には「志らす類方(知らするかた)」と陰刻されている。やはり「志」の字のすぐ上の部分が縦長の長方形に彫られている。

 最初に見たとき、わたしはここに「たづぬる方」を見たひとから提供される情報を貼るのかと思った。しかし、そうではないらしい。それはわざわざ石標に貼り紙をするまでもなく、「たづぬる方」の家主のところに知らせればよいわけである。

 「志らす類方」に貼られるのは、迷子を保護している町のほうからの貼り紙である。「こういう迷子を預かっています」という告知である。貼り紙には、その町の町名とともに、迷子の名前や年頃、面体などが記される。

 

〈一石橋以外にもあった迷子しらせ石標〉

 迷子しらせ石標は、よく考えられた仕組みである。一石橋だけでなく、湯島天神や浅草寺、両国橋など、往来の激しい場所にあったらしい。しかし、震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけであるという。冒頭に述べた立札にそのように説明されている。

 これらの石標は江戸期だけでなく明治維新以降も実際に機能していたようだ。明治になってから新たに建立された石標もあったという。

 

〈親の思い、子の思い〉

 現代でも、鉄道のターミナルやテーマパークや百貨店や繁華街など人混みでの迷子は珍しくない。親がちょっと目を離したすきに子はいなくなる。江戸期も珍しくなかっただろう。当時の親子の姿が目にうかぶ。親は狼狽し半狂乱になって子を呼び走り回る。子は不安のあまり泣きわめく。親も子も疲労困憊したすえに生き別れの恐怖と絶望に襲われる。

 そういうときに一石橋橋詰の「満よひ子の志るべ」を思い出す。迷子を預かった町のほうでは右側面の「志らす類方」にその子の情報を貼り紙する。貼り紙を読んだ親は跳びあがって喜んだだろう。字を読めなくとも身近な誰かが教えてくれる。あるいは先に、親のほうが左側面の「たづぬる方」に子の情報を貼り紙するかもしれない。当時の江戸庶民の識字率は高かったといわれる。その識字率の高さに助けられて石標は機能したのではないか。そうはいっても親が見つからないこともあっただろう。そうなれば結局だれかの養子にならざるをえなかったのではないか。

 そんなことを考えながら、わたしは一石橋から鎌倉橋を抜けて神田の東京あさひ法律事務所への帰途を急いだ。(以上)