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微量汚染と低線量被ばく~汚染処理水の海洋放出に反対しつづける 弁護士白井劍

微量汚染と低線量被ばく ~汚染処理水の海洋放出に反対しつづける 弁護士白井劍

 

〈検証1日目の夜〉

 1992年秋のことだった。あるいは記憶が半年か1年ずれているかもしれない。水俣病東京訴訟第2陣の現地検証がおこなわれた。水俣市は熊本県の最南端である。南に向かって峠をこえると出水市にはいる。鹿児島県の最北端である。東京訴訟は原告の大半が出水に住む漁民だった。だから検証は水俣と出水で実施された。1日目の水俣での検証が終わった夜、わたしは裁判官たちが泊っている宿舎までを急いだ。タクシーをつかってもよいと言われていた。でも、すぐに車酔いしてしまうので駆けて行った。とちゅうで息が切れ2、3度歩いた。弁護団事務局長の宮田学弁護士から頼まれた伝令役だった。文書を届けたり翌日の日程の確認をしたりするのだった。

〈この魚は大丈夫でしょうか〉

宿舎に着くと裁判官たちの部屋に通された。裁判長は不在だったが、もうすぐ戻るので待っていてくれと言われた。裁判官二人が浴衣姿で夕食のお膳を前にあぐらをかいていた。法廷で裁判長の左右両隣にいる陪席(ばいせき)裁判官である。わたしが所在なげに突っ立っているのを気にしたのだろう。その一人がわたしに声をかけた。「この魚は大丈夫でしょうか」と。膳のうえの焼き魚を指していた。わたしは、「大丈夫ですよ。水俣の魚といったって1度や2度食べただけでは水俣病になりませんよ」と笑った。裁判官は、知っていると言いながら、「一定量の有機水銀が体内に蓄積されないと発病しない。だからといって、発病するまで人体に何の影響もないわけじゃあないと思うんです」と述べた。そこに裁判長が戻ってきたので、その話はそれで終わった。

〈化学物質の閾値(いきち)〉

陪席裁判官が「一定量の有機水銀が体内に蓄積されないと発病しない」と言った、その一定量は「閾値(いきち)」と呼ばれる。一般に、ある化学物質の摂取量が有害な影響を生じる可能性があるかどうかを示す値が「閾値」である。閾値を超えない範囲であれば発症はしない。とはいえ、発症しない程度の微量の有機水銀でも、脳細胞のレベルでミクロの眼でみれば確実に脳細胞を破壊するはずである。陪席裁判官が、「発病するまで人体に何の影響もないわけじゃあないと思う」と言ったのはそういうことである。このことは、とりわけ、子どもとの関係では深刻である。摂取しつづけたときに、成人であれば異常が現れない微量の有機水銀でも、子どもの場合は精神発達遅滞が統計的に有意に現れる。化学では「閾値以下であれば無毒性である」という言い方がされる。しかし、そのことは、けっして安全だということとイコールではない。

〈放射線被ばくの閾値(しきいち)〉

先ほど「閾値」の読み仮名を「いきち」と書いた。化学では「いきち」である。しかし、物理学では「しきいち」と読む。放射線量の場合も「しきいち」と読まれる。政府は、国際機関であるICRP(国際放射線防護委員会)の見解を引いて、100ミリシーベルト以下の「低線量被ばく」ではガン死のリスクが増加しないと宣伝してきた。100ミリシーベルトが閾値とされてきたのである。「喫煙や運動不足などのほかの発がん要因に隠れてしまって区別できず、統計的に有意な差が認められない」と環境省や日本原子力文化財団などのホームページに書かれている。

〈100ミリシーベルト閾値論のうそ〉

100ミリシーベルトを超える被ばくをして初めてガンのリスクが増え、それまでは安全だという政府の宣伝には、水銀の閾値と同じようなごまかしがあると思う。そもそも、100ミリシーベルトという値は、広島と長崎の原爆投下後の寿命調査における集団的疫学調査の結果が根拠になっている。しかし、原爆の場合は急性で高線量の被ばくであり、原発事故の場合は長期にわたる低線量の被ばくである。原爆の調査結果が原発事故の場合にそのまま当てはまるとは考えにくい。

最近、低線量の長期にわたる放射線被ばくとガン死との関連が実証された。これは、フランス、イギリス、アメリカの原子力施設に働く30万9932名を35年にわたって対象にした「国際原子力労働研究(INWORKS)」という、過去最大規模の疫学調査にもとづいている。2023年8月、国際ガン研究機関(IARC)、米国国立労働安全衛生研究所(NIOSH)などの研究者たちが医学雑誌BMJ(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル)に発表した。これによれば、累積線量が100ミリシーベルト未満でも、被ばく線量とガン死亡率とのあいだに直線的な相関関係があることを示す証拠が得られたという。100ミリシーベルト以下の「低線量被ばく」ではガン死のリスクが増加しないという宣伝がウソであったことがはっきりしたわけである。

〈福島だけは年間20ミリシーベルト〉

長期の低線量被ばくとガン死リスクの相関関係に関連して、2つのことを述べておきたい。ひとつは公衆被ばくの線量限度である。わが国の、福島以外の地域では、一般の人びとの健康を護るために年間1ミリシーベルトが公衆被ばくの線量限度とされている。ところが、福島だけは年間20ミリシーベルトが基準となっている。その不合理を批判されると政府が持ち出してくるのが100ミリシーベルト閾値論である。いつまでもこのような二重の基準をつづけるべきではない。

〈福島第一原発汚染処理水の海洋放出に反対しつづける〉

 2023年8月に始まった汚染処理水の海洋放出問題では、中国からの強い反発だけにマスコミの目が集まって問題の本質が隠れてしまった。政府は、中国だけが例外で、おおむね国際的な了解がえられているなどと胸をはった。実際にはそうではない。多くの国々が反対し、あるいは懸念を示している。注目すべきは太平洋の島嶼諸国である。マーシャル諸島の国会は、海洋放出が始まる前の2023年3月、「太平洋に放出するより、安全な代替策を検討するよう強く要請する」という決議をあげた。マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ大統領は新聞のインタビューに、日本の海洋放出について、「本来なら、もっと相談してほしかった。お互いを尊重し、話し、視点を共有する必要があったはずです」と語っている(朝日新聞2024年3月11日社会面記事)。汚染処理水の海洋放出をこの先もつづければ、海からの恵みを毎日口にして生活している太平洋の島々の子どもたちに異常がでる、そういう日が来るかもしれない。けっして絵空事ではなく、現実にありうる懸念である。そのときに、「政府と東電がやったことだ」ですむだろうか。もしそうなればわたしたちが加害者になる。汚染処理水海洋放出には今後もあきらめることなく、反対し続けたいと思っている。(以上)