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中島みゆきの「世情」 ~営利の犠牲にされてはならないもの 弁護士白井劍

中島みゆきの「世情」 ~営利の犠牲にされてはならないもの 弁護士白井劍

 

〈金八先生の挿入歌〉 中島みゆきの「世情」はごぞんじだろうか。ドラマ「3年B組金八先生」の挿入歌としてならごぞんじかもしれない。中島みゆきの歌が流れるだけで台詞のない有名なシーンである。1981年3月20日の放送だった。そのために作られた曲ではない。1978年4月にリリースされた曲だった。以下のとおりの歌である。

作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき

(1番)世の中はいつも変わっているから/頑固者だけが悲しい思いをする/変わらないものを何かにたとえて/その度崩れちゃ そいつのせいにする/シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく/変わらない夢を流れに求めて/時の流れを止めて変わらない夢を/見たがる者たちとたたかうため (2番)世の中はとても臆病な猫だから/他愛のない嘘をいつもついている/包帯のような嘘を見破ることで/学者は世間を見たような気になる/シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく/変わらない夢を流れに求めて/時の流れを止めて変わらない夢を/見たがる者たちとたたかうため/シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく/変わらない夢を流れに求めて/時の流れを止めて変わらない夢を/見たがる者たちとたたかうため

 

〈難解な歌〉 この歌が発表された1978年、わたしは大学生になった。その後の数年わたしの住まいにはテレビがなかった。だから金八先生も見たことがなかった。わたしがこの歌を知ったのは、弁護士になった1985年の夏に友人から、「白井くんのために録音しておいた」と言われてカセットテープをもらったときだった。流行歌にはない異質の真摯さを感じた。それにしても難解な歌だと思った。問題は「変わらない夢」である。2度出てくる。一方では「変わらない夢」を「求めて」いる。他方で「変わらない夢」を「見たがる者たちとたたかう」という。もしも主語が同じで「変わらない夢」の内実も同じとすれば歌は矛盾に満ちていることになる。同一の言葉は同一の意味内容をもつ。法律の条文解釈や準備書面を書くときの不文律であり、理科系の作文技術でもある。しかし、文学的表現ならば話は別かもしれない。「シュプレヒコール」はデモなどで参加者が声をそろえて同じフレーズをくり返し唱和することである。その声が波のように前進するのが「シュプレヒコールの波」だろう。わたしは公害被害者たちのデモ行進を想いうかべてこの歌を聞いた。いい歌だと思った。それと同時に、歌の作者と自分とのあいだの距離感を感じた。作者は路傍から「シュプレヒコールの波」が「通り過ぎていく」のを眺めている。わたしは眺めていたことがない。いつもデモ行進の中にいた。とりわけ1985年から90年代にかけては、そういう機会が頻繁にあった。

 

〈シュプレヒコールの波の中にいて〉 1985年は国家秘密法案に対する国民的反対運動が盛り上がった年であった。他方で、国鉄の「親方日の丸」的体質をマスコミが執拗に批判し、中曽根内閣は国鉄分割・民営化を打ち出した。その年の4月にわたしは有楽町の旬報法律事務所に入れていただいた。労働事件で有名な法律事務所である。当時の労働運動には総評という巨大なナショナルセンターがあり、総評には総評弁護団という専門家集団がいた。弁護士1年生のわたしもその一員だった。

国鉄分割・民営化法案反対の集会などの運動も1985年から86年にかけて旺盛に展開された。あるとき日比谷野外音楽堂を埋め尽くす集会があった。集会後、夜になってデモ行進を始めた。無数の赤旗が揺れる。それぞれのグループごとに警備の弁護士が総評弁護団から配置された。わたしも総評弁護団の腕章をつけてデモ隊といっしょに歩いた。担当したのは、ある組合の地方支部だった。「君の担当する人たちは警察の挑発にのりやすいから気をつけるように」と事前に言われた。全行程の半ばまで来たときだった。機動隊が近寄ってきた。近寄って来る理由は何もなかった。わたしの担当の組合員たちが「なんだ、なんだ」と騒ぎ始めた。騒然となった。機動隊はどんどん向かってくる。わたしはとっさに機動隊とデモ隊の間にとび込んだ。「警察の挑発にのるな」と大声をあげ両手を拡げた。背後に組合員たちを護りつつ立ちふさがった、・・・・はずだった。主観的にはそうだった。でも、客観的には前後から機動隊とデモ隊にはさまれただけだった。身動きがとれなくなった。満員電車のなかで動けなくなったのと変わりがない。ただ「挑発にのるな」と声を限りに叫び続けた。やがて左脚の向う脛に鈍い衝撃を感じた。機動隊員の硬いあの靴で蹴られた衝撃は半端ではない。帰宅後にみたら大きく青く内出血していた。でも、そのときは興奮していて、さほど痛みはなかった。目の前のだれが蹴ったのかは皆目わからない。見ると、機動隊はデモ隊の最前列の者たちの足をだれかれかまわずに蹴っている。蹴られた者たちは声もあげずに痛みに耐え、ガッチリとスクラムを組んで後方にいる仲間たちを護っていた。緊張感がみなぎっている。わたしは「挑発にのるな」と叫び続けた。突然に後頭部を3、4発、ボカボカと殴られた。後方の組合員たちが「弁護士、邪魔すんな」「うるさい」「帰れ」などと口々に言いながら殴っているのだ。もっとも、「こらっ、弁護士に手を出すな」と叫ぶ声も聞こえる。とんでもないところに来てしまった。わたしは後悔し始めた。さらに災難がきた。首筋に痛みが走って全身を前方に持っていかれた。機動隊がわたしのネクタイをぐいっと引っ張ったのだ。引き上げられたという方が実態に近い。からだが宙に浮いたようになった。ああ、こんなところでおれは死ぬのんか。かっこ悪いこっちゃなあ。まるで人ごとのようにぼんやり思った。そのときだった。「しらい~」と叫ぶ声を聞いた。急に自由になった。満員電車がガラッとすいたようになった。声が機動隊とデモ隊の間をかき分けて向かってきた。鬼の形相だ。同期の荒木雅晃弁護士だった。腕力でかき分けたというより、かれの気迫に押されて周囲が道を開けたように見えた。かれが機動隊とデモ隊を引き離したおかげで一発触発の危機は回避された。その後は何ごともなく最後までデモ隊は行進しつづけ、わたしも歩きつづけた。終わったあと荒木さんと酔いつぶれるまで飲んだ。

 

〈営利の犠牲にされてはならないもの〉 国鉄労働者たちの懸命の抵抗にもかかわらず、国鉄分割・民営化法案は1986年11月28日国会を通過した。抵抗した「頑固者たち」はみな差別され職場を追われ「悲しい思い」をした。中曽根康弘首相(当時)は、「これだけの大法案がこんなに順調に通るとは、1年前には夢にも思わなかった」と語った(1986年12月6日付毎日新聞)。中曽根氏が拍子抜けするくらい世論は冷めていた。国民の怒りに火が付かなかった。それから37年余の歳月が流れた。その間に、全国各地の赤字路線がつぎつぎと廃止され、あるいは縮小されていった。中央のJRは莫大な利益を出しているのに地方のJRは赤字路線を抱えきれない。その路線に頼って生活していた人びとの大事な交通機関がなくなり、生活基盤が奪われた。過疎化に拍車がかかり、富の偏在がすすみ、中央と地方の格差が拡大していった。

世の中には、営利の犠牲にされてはならないものがある。生命、健康を別にしても、空気や水や土地や交通がこれに当たる。そういうものは人びとの生活基盤であって高度の公共性がある。日本国有鉄道という、全国ひとつの鉄道網を破壊したために、この国の風景はずいぶんと違ったものになってしまった。営利最優先という「変わらない夢」を見たがったために大事なものが失われた。そういう「変わらない夢」ではなく、人権と人間の尊厳という「変わらない夢」を追い求めよう。営利のために人びとの生活基盤を犠牲にする国のありかたを変える努力をしよう、微力ではあるけれども。いつもそう思うのである。(以上)