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東京五輪と原発事故 ~空疎な「安全」は被害を生む  弁護士白井劍

東京五輪と原発事故 ~空疎な「安全」は被害を生む  弁護士 白井劍

〈赤川次郎氏の投稿〉

今月6日付朝日新聞「声」欄の投書のひとつが人目を引いた。作家の赤川次郎氏の投稿だった。氏はこう述べている。

「一日も早く、五輪中止を決断するしか道はない。賠償金を払わねばならないのなら払えばいい。経済はとり戻せても、人の命はとり戻せないのだ。医療も報道も、それぞれの良識と良心をかけて、五輪開催に反対の声を上げるときである」

 

〈菅政権の言う「安全」は中身のない空疎なことば〉

首相も担当大臣も「安全安心な大会の実現」を繰り返す。しかし、どのように「安全」を実現するのか、そのための合理的な方策を具体的に語ることはない。中身のない空疎な「安全」である。政府の新型コロナ感染症対策分科会の尾身茂会長も、「いまの状況でやるというのは、普通はない。このパンデミックで」と国会で答弁した。この答弁さえも無視して菅政権はひたすら開催に突き進もうとする。正気の沙汰とは思われない。

 

〈東電も国も「安全」と言い続けた〉

政権が「安全安心な五輪開催」を繰り返す姿に、わたしは既視感を覚えた。福島第一原発事故にいたる経過とそっくりだと思うのである。

万が一にも原発事故が起きないよう「安全を守る」ことが、東京電力と政府の最優先の目的であったはずだった。ところが、実際には、「安全を守る」のではなく、「安全に稼働しているという建前を守ること」が最優先の目的とされた。いうまでもなく、この「建前」は本来の「安全」とは別物である。これが目的になってしまえば、中身のない空疎な「安全」となる。建前にそぐわない不都合な事実は無視され、さらには隠蔽され、あるいは信頼性が低いかのように話を捻じ曲げられた。その結果が10年前のあの事故である。広範な地域に高濃度の放射性物質が降り注ぎ、膨大な人々の日常生活と地域社会が奪い去られた。

 

〈空疎な「安全」は被害を生む〉

原発事故では空疎な「安全」が被害を生んだ。同じ悲劇が東京五輪で繰り返されてはならない。五輪開催によってコロナ被害が拡大する事態は何としても避けねばならない。政府が守らねばならないのは「安全であるという建前」ではない。「ひとびとの安全」である。生命と健康をまもるため、あらゆる手立てを尽くして、その安全を確保しなければならないのだ。いま人々の安全を確保するためには、東京五輪を中止するほか方途がない。赤川次郎氏が言うとおり、「一日も早く、五輪中止を決断するしか道はない」のである。

(以上)

 

 

 

〈補足〉

念のために、赤川次郎氏の前記投稿の全文を紹介しておきます。

【2021年6月6日朝日新聞朝刊「声」欄】

五輪中止 それしか道はない

作家 赤川次郎(東京都73)

想像してみよう。恋人たちが身を寄せ合って夜の川辺を歩く姿を。孫の誕生日に集まった3世代の家族が互いに抱き合う光景を。今、私たちが求めているのは、そんな「日常」が戻った世界であるはずだ。

しかし今、日本はそれに逆行する「とんでもない国」になろうとしている。新型コロナの感染拡大が続く緊急事態宣言下で五輪パラリンピックを開催? 他の国のことなら「何てひどい国だ!」と呆れるだろう。

国の指導者の第一の任務は「人々の命を守ること」。いまだウイルスの正体が分からないのに、9万人もの人間が出入国するとしたら、どうやって感染拡大を防ぐことができるだろうか。むしろ、ここを起点にさらに新たなパンデミックが世界を襲うかもしれない。一日も早く、五輪中止を決断するしか道はない。賠償金を払わねばならないのなら払えばいい。経済はとり戻せても、人の命はとり戻せないのだ。

医療も報道も、それぞれの良識と良心をかけて、五輪開催に反対の声を上げるときである。利権に目のくらんだ人々には、これも「馬の耳に念仏」だろうか。そう言っては馬に失礼かもしれないが。