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死刑執行 弁護士白井劍

死刑執行  弁護士白井劍

 

〈昨年末の死刑執行〉

昨年(2021年)12月21日、3名の確定死刑囚の刑が執行された。2019年12月以来2年ぶりの死刑執行だった。死刑執行当日に日本弁護士連合会は死刑執行に抗議する会長声明を発した。声明は、日本は先進国のなかで死刑制度を維持する稀有の国であることを述べたうえ、外交的観点からも死刑廃止・停止が必要であると訴えている。具体的には、南アフリカ共和国が日本に死刑制度があることを理由に被疑者引き渡しを拒んでいること、日豪円滑化協定交渉では日本に死刑制度があることが協定締結の障害となっていると言われていることなどを指摘している。死刑存置か廃止かが、その国において人権が尊重されているか否かをはかるリトマス試験紙のような役割を果たすと国際社会で見られているわけである。

 

〈問題は誤判の可能性〉

この問題が難しいのは、死刑存置論も死刑廃止論も、それぞれに耳を傾けるべきものをもつからである。被害者遺族の心情からすれば死刑存置が当然と考えるひともいれば、死刑が凶悪犯罪の抑止力になると信じるひともいる。人を殺した以上は生命をもって償うべきと考えるひともいる。一定の極悪非道な犯行には死刑を科すべきというのが多数の国民の法的確信であると言うひともいる。死刑囚が犯人に間違いないと言い切れるのであれば死刑存置論にも説得力がある。

しかし、万一、犯人でなかった場合、つまり誤判の場合、死刑が執行されてしまえば取り返しがつかなくなる。人類はそのような実例をたびたび経験してきた。有名なのはイギリスのエヴァンス事件である。ロンドンの集合住宅に住んでいたティモシー・ジョン・エヴァンスは1949年、自宅で妻と娘を殺害したとして起訴された。判決で娘の殺害を認定され絞首刑を言い渡され、1950年3月に処刑された。ところが、死刑執行から3年後、同じ集合住宅の階下の住人であったクリスティが多数の女性を殺害した連続殺人犯であることが判明した。クリスティはエヴァンス夫人の殺害を自供した。1966年に公式な調査によってエヴァンスの娘の殺害もクリスティの犯行であったと結論づけられ、エヴァンスの無実が明らかになった。この冤罪事件は英国社会を死刑廃止に向かわせる契機のひとつとなった。

ジョン・ブラッドフォード事件は第2次大戦前アメリカの冤罪事件である。ブラッドフォードは宿屋の主人だった。あるとき客室のひとつから呻き声がするのを聞きつけて、その部屋に駆けつけた。自衛のためにナイフをもっていった。客はベッド上で血にまみれていた。そこに別の者がやってきて、死体の前でナイフをもったブラッドフォードを見つけた。謀殺罪で逮捕され、裁判の結果絞首刑に処せられた。死刑執行後しばらくして、ブラッドフォードの無実が明らかになった。真犯人は被害者を突き殺して、ブラッドフォードがやってくる直前に逃走したのだった。

 

〈死刑台からの生還〉

死刑執行がかろうじて回避され、のちに無罪放免となった事例も枚挙にいとまがない。ラークマン事件はそのひとつである。1925年8月、ニューヨーク州バッファロ市の美術金属商会の会計係が強盗に襲われて殺害された。小さな犯罪の前科があったエドワード・ラークマンが謀殺の嫌疑で逮捕された。警察でラークマンの面割がおこなわれ、犯行の唯一の目撃者がラークマンを犯人だと確認した。目撃者は裁判でもラークマンが犯人だと証言した。陪審員は、43時間の評議の末、有罪の評決を答申した。裁判官は、ラークマンを電気椅子によって死刑に処すべきと宣告した。上訴裁判所でも有罪判決だった。ただし、2名の裁判官の反対意見があった。その趣旨は、被告人と犯人の同一性が合理的な疑いをこえる程度に証明されていないというものであった。死刑執行が予定されていた直前の1927年1月13日の夜、州知事は、死刑の判決を終身刑に減刑した。知事は、「もしあとでラークマンの無罪が立証されても、死刑執行のあとであれば、州はどうすることもできない」と語った。数年後、新たな証拠により、ラークマンとは無関係のギャング団による犯行であり、ラークマンは無実であることが証明された。

同様の事例は今も多数にのぼる。2014年2月4日合衆国冤罪事件データベースの研究プロジェクトが発表した報告データによると、誤審による有罪判決が覆り再審無罪になった刑事事件は合衆国で過去25年間に約1300件。そのうち冤罪が晴れた死刑囚はじつに143人にもなる。

わが国でも「死刑台からの生還」の実例は多い。死刑判決が上訴審で覆されて無罪になった事例、あるいは死刑判決確定後に再審で無罪となった事例である。松川事件、八海事件、免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件等々である。恐ろしいのは、すでに死刑が執行された夥しい数のなかに、相当数の無罪事例が含まれていたと考えられることである。すくなくともその可能性を否定し去ることはだれにもできない。再審が申請され審理中であったにもかかわらず死刑が執行されてしまった事例もいくつも存在する。

 

〈無実の人に対する政府の殺人〉

裁判の結果「有罪」とされ死刑判決がでれば、わたしたちは被告人のことを、処刑されるのが当然の、極悪非道の人間と思いがちである。しかし、裁判も人間が運営する制度である以上、間違いがないとは言い切れない。万一にも裁判所の判断が誤っていたときには死刑執行は「無実の人に対する政府の殺人」(ジェローム・フランク、バーバラ・フランク共著「Not Guilty」(兒島武雄訳「無罪」、日本評論社))になってしまう。そのことをどう考えるのかについて社会全体で十分な議論がなされてきたとは思えない。死刑制度を存置してよいのかどうか、もっと国民的議論がなされる必要があると思う。(以上)